大谷本廟(おおたにほんびょう)


西本願寺で晨朝参拝の後、朝食をすませ、祖父と伯母の眠る大谷本廟へお参りに

行ってまいりました。

大谷本廟は宗祖親鸞聖人のご廟所(ごびょうしょ:墓所)であり、全国の門信徒の

ご遺骨をお納めするところです。

納骨の方法には祖壇納骨(祖壇のそばに門信徒のご遺骨を納めることを祖壇納骨

と呼びます。)、無量寿堂(第一無量寿堂・第二無量寿堂)納骨、墓地納骨の三種類

があります。

建物型の第一無量寿堂、第二無量寿堂には併せて28,000余の納骨壇があり、

祖壇後方に広がる大谷墓地には約13,000基の墓があります。

納骨の他に一座経、永代経、年回法要、結婚式の受付も行われています。

 西本願寺から大谷本廟へは西本願寺から無料循環バスが運行されています

ので便利です。

循環バスの乗り場は聞法会館裏側駐車場にあります。

循環バスの詳細は、こちらをご覧ください。・・・
無料循環バス


車内では大谷本廟のご案内のビデオが流れ、とても安らかな気持ちになります。

バスは大谷本廟総合受付の五条バイパス側道路に停車します。 

 
 
大谷本廟参道


親鸞聖人のお像 
 



大谷本廟総門


仏殿(ご本堂)

 
本堂お内陣



明著堂(めいちょどう)


明著堂案内板


明著堂


(案内板より) 

                       祖壇・明著堂

このお堂は『明著堂(めいちょどう)』と呼び、その正面の石段奥に見える檜皮葺

(ひわだぶき)の八角形のお堂を『祖壇(そだん)』といいます。

祖壇は、宗祖親鸞聖人のご影並びにご遺骨が納められている場所で、1660年

に本願寺第十三代宗主良如上人によって、今日の場所に造られました。

祖壇の左右には歴代宗主並びにお裏の方の墓所があります。

ここには、親鸞聖人のご遺徳を慕い、聖人のお側にありたいとの願いから、全国

の門信徒の方のご遺骨が納められ、宗祖親鸞上人の墓所を今に受け継ぐ本願寺

発祥の墓として多くの方のお参りがあります。

また明著堂は祖壇の前に位置する拝堂で、1709年本願寺第14代宗主寂如

上人の時代に建築されました。明著堂は堂内に柱の無い東西五間、南北十間の

建物で、正面には寂如上人のご染筆による『明著堂』の額がかかげられています。

先人にならいまずご廟に跪(ひざまず)き、聖人のご生涯を偲びつつ、南無阿弥

陀仏とお念仏を申しましょう。



明著堂


明著堂より見える祖壇入口


大谷墓地より望む


祖壇
 

 
第一無量寿堂

 
大谷本廟内石窟
(案内板より)

この石窟は江戸時代に京都名所記として書かれた『京童跡追(きょうわらべあとおい)』

(1667年/寛文7年)などに紹介され、親鸞上人が学問をされた所とされています。

その中には老女が扉の前で合掌している様子が描かれています。さらに、この描写を

裏付けるかのように、現在石窟入口付近には、漆喰の痕跡や踏石があり、扉があった

ことがわかります。

そして、『大谷本願寺通紀(おおたにほんがんじつうき)』(1785年/天明5年)には、この

石窟が親鸞聖人の初期の廟堂(大谷廟堂)があったと伝えられる場所(現在の崇泰院

(すいたいいん)付近)から移されたと記されています。

石窟に利用された石材の多くは、江戸時代の石造品(石仏・五輪塔・小形板碑など)が

利用されています。

なお、この石窟は、平成16年に実施された京都市の調査により、数少ない貴重な石窟

であることが確認されています。 

 
覚信尼(かくしんに)公碑
親鸞聖人の末娘様

大谷本廟の沿革

 浄土真宗(じょうどしんしゅう)を開かれた宗祖親鸞聖人(しゅうそしんらんしょうにん)

は、弘長2年11月28日(1263年1月16日)、弟の尋有僧都(じんうそうづ)の住坊

(じゅうぼう)「善法坊(ぜんほうぼう)」(現在の角坊(すみのぼう))において90歳で

ご往生(おうじょう)になり、鳥辺山(とりべやま)南辺(現在の本廟(ほんびょう)

「御荼毘所(おだびしょ)」)で火葬され、ご遺骨は鳥辺野北辺の 「大谷」 に納め

られました。

 親鸞聖人のご往生10年後の1272(文永9)年の冬、親鸞聖人(しんらんしょう

にん)
の末娘である覚信尼(かくしんに)公が諸国の門弟の協力を得て、ご遺骨を

吉水の北辺に改葬し、六角の廟堂(びょうどう)を建て、ご影像(えいぞう)を安置

されました。廟堂建立の地は、現在の知恩院(ちおんいん)の山門の北に位置する

崇泰院(そうたいいん)付近とされています。

この土地は、覚信尼公の夫である小野宮禅念(おのみやぜんねん)の所有する

土地でありましたが、廟堂建立の翌々年、1274(文永11)年にこの敷地を

覚信尼公(かくしんにこう)に譲ったとされています。

その後、覚信尼(かくしんに)公は1277(建治3)年から3度にわたって、ここを

宗祖の墓所として寄進することを東国の門弟たちに通達し、遠方にいる門弟に

かわり直接廟堂(びょうどう)を護持(ごじ)する任に就きます。これが後の「留守

(るすしき)」です。

 この廟堂は「大谷影堂(おおたにえいどう)」とも呼ばれ、後に「大谷本願寺

(おおたにほんがんじ)
」となり、第8代蓮如上人(れんにょしょうにん)時代の

「寛正(かんせい)の法難(ほうなん)」(1465年)により破却されるまで、およそ

200年間、諸国の門弟や同行によって護持(ごじ)されてきました。

以後、第12代准如上人(じゅんにょしょうにん)時代の1603(慶長8)年、

現在地に移転し、この地を「大谷」と呼ぶようになり、今日まで多くの門信徒

の方々により護持されています。


〜大谷本廟ホームページより〜
 



 大谷本廟紹介ビデオ
 
 大谷本廟ホームページ


2012/2/2 大


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