今月は白骨の御文章についての法話でした。
『白骨の御文章』
それ、人間の浮生(ふしょう)なる相(すがた)を
つらつら観ずるに、凡(おおよ)そはかなきものは、
この世の始中終(しちゅうじゅう)、幻の如くなる一期なり。
されば未だ万歳(まんざい)の人身(じんしん)を
受けたりという事を聞かず。一生過ぎ易し。
今に至りて、誰か百年の形体を保つべきや。
我や先、人や先、今日とも知らず、明日とも知らず、
おくれ先だつ人は、本の雫(もとのしずく)・
末の露(すえのつゆ)よりも繁しといえり。
されば、朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、
夕(ゆうべ)には白骨(はっこつ)となれる身なり。
既に無常の風来りぬれば、すなわち二(ふたつ)の眼
たちまちに閉じ、一の息ながく絶えぬれば、
紅顔むなしく変じて桃李の装を失いぬるときは、
六親・眷属(ろくしん・けんぞく)集りて歎き悲しめども、
更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外に送りて
夜半の煙と為し果てぬれば、ただ白骨のみぞ残れり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は老少不定のさかいなれば、
誰の人も、はやく後生(ごしょう)の一大事を心にかけて、
阿弥陀仏(あみだぶつ)を深くたのみまいらせて、
念仏申すべきものなり。
アジサイが純心寺の境内を色鮮やかに
彩ります。
明日の雨を待ち望んでいるかのようです。