板敷山大覚寺     



 

大覚寺本堂






 大覚寺の「縁起略述」には後鳥羽院の皇子正懐親王が比叡山にて出家し、周観大覚と称せら れ、後に東国諸州行脚されていた折に、板敷山の南麓に庵を結ばれたと伝え、これが今の大覚 寺であると伝えています。さらに「縁起略述」は周観大覚は親鸞聖人が越後の国より常陸の国に 来られ、稲田郷にご滞在になった折に、稲田に聖人を訪ね、念仏の深意を聞信し師弟の契りを結 ばれ善性房鸞英と称された。それより常にそばで聞法し親鸞聖人のご教化をたすけられたと記し ています。
 善性房は二十四輩第九番に数えられる直弟です。善性房開基と伝えられる東弘寺の縁起も善 性房は後鳥羽院の第三王子順徳天皇の弟にあたる但馬の宮正懐親王であると伝え、また二十 四輩第八番に数えられる性証房開基の青蓮寺の縁起も後鳥羽院の皇子である周観上人がこの 地に下向され、同寺を玉跡山極楽院瑞厳寺という天台宗の寺院としたと伝えています。
山伏弁円護摩壇 法然聖人とともに親鸞聖人が流罪に処せられた承元の法難は、後鳥羽院の 女房が院の熊野御幸中に法然聖人のお弟子であった住蓮房と安楽房が修した別事念仏の法会 に結縁し、出家したことで後鳥羽院の逆鱗にふれたことが直接の契機となりました。
 この後鳥羽院の皇子と伝承されている天台宗の僧侶であった周観上人が親鸞聖人のご旧跡寺 院の縁起に多く記されていることは興味深いものがあります。
 
山伏弁円と板敷山
大覚寺の裏に板敷峠があり峠から山に入ると山伏弁円が親鸞聖人を害するために三日三晩祈 ったと伝えられる護摩壇跡があります。
 親鸞聖人の曾孫にあたる覚如上人が編纂された親鸞聖人のご伝記、『御伝鈔』の下巻の第二 段には「越後から常陸に移られ、笠間郡稲田郷にお住まいになりました。ひっそりとお住まいにな っておられても僧侶俗人を問わずに人が訪ね、庵の戸を閉じていても身分に関係なく多くの人々 が溢れるように集まった」と記しておられます。このような常陸での親鸞聖人のご教化に対し快く 思わない人々がいました。続く『御伝鈔』の下巻の第三段には親鸞聖人の命を狙った山伏弁円を 教化されたエピソードが記されています。
「一人の僧が、聖人のご教化が弘まっていくのを 快く思わず、ついに聖人を襲おうと狙っていまし た。聖人が板敷山という深い山を常々通られて いたので、その山で山伏は度々待ち伏せしてい ましたが、その思いを遂げることができませんで した。不思議に思った山伏は聖人に会うため禅 室に行くと、親鸞聖人はなんのためらいもなく出 てこられ、その尊顔に接して山伏の危害を加え ようと思っていた心がたちまちに消え、それどこ ろか後悔の涙が抑えられませんでした。しばらく して山伏は今までの抱いていた思いをありのま まに述べましたが、聖人は全く驚く気配もありま せん。山伏はその場で聖人に危害を加えるため に持っていた弓を切り、刀を捨て、頭巾を取り、 柿渋で染めた衣を改め、仏教(専修念仏の教 え)に帰依し、往生の素懐を遂げました。不思議 なことです。これが明法坊です。これは聖人が 付けた法名です」と記しています。
 大覚寺の「縁起略述」は常陸楢原の地に山伏 の道場があり、播磨公弁円はその司として人々 の崇敬をうけていたが、親鸞聖人がご教化をさ れてから、修験の法にたよるものが少なくなり、 親鸞聖人を蛇蝎のごとくに怨んだ。(弁円は)弟 子35人と謀り、ついに聖人を殺害しようと、板敷 山南麓の空いた庵(今の大覚寺)にて、聖人の ご教化の行き帰りをしばらく狙っていたが、聖人 を襲うことができなかった。そこで板敷山の山頂 に護摩壇を築き、三日三晩にわたり修法するが 何の効験もなく、ますます怒りをつのらせ、刀杖 を携え単身稲田に推参したと記しています。
 弁円が親鸞聖人を狙った板敷山は稲田の草 庵の南に位置し、稲田から常陸国の国府(今の 石岡市)へまた霞ヶ浦に出て鹿島神宮へ通ずる 道でありました。
 板敷山の山頂には弁円が護摩を焚いたと伝え られる護摩壇跡があります。

護摩壇跡




親鸞聖人説法石

市指定名勝庭園
 大覚寺には市指定の名勝庭園があります。京都の桂離宮の庭園を模して造園し、どの角度か ら見ても裏がない「裏見無しの庭」と呼ばれ、菖蒲や睡蓮など季節ごとに花が楽しめます。


板敷山大覚寺 所在地:茨城県石岡市大増3220
 








浄土真宗本願寺派  純心寺 (西本願寺)


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