「一人の僧が、聖人のご教化が弘まっていくのを
快く思わず、ついに聖人を襲おうと狙っていまし
た。聖人が板敷山という深い山を常々通られて
いたので、その山で山伏は度々待ち伏せしてい
ましたが、その思いを遂げることができませんで
した。不思議に思った山伏は聖人に会うため禅
室に行くと、親鸞聖人はなんのためらいもなく出
てこられ、その尊顔に接して山伏の危害を加え
ようと思っていた心がたちまちに消え、それどこ
ろか後悔の涙が抑えられませんでした。しばらく
して山伏は今までの抱いていた思いをありのま
まに述べましたが、聖人は全く驚く気配もありま
せん。山伏はその場で聖人に危害を加えるため
に持っていた弓を切り、刀を捨て、頭巾を取り、
柿渋で染めた衣を改め、仏教(専修念仏の教
え)に帰依し、往生の素懐を遂げました。不思議
なことです。これが明法坊です。これは聖人が
付けた法名です」と記しています。
大覚寺の「縁起略述」は常陸楢原の地に山伏
の道場があり、播磨公弁円はその司として人々
の崇敬をうけていたが、親鸞聖人がご教化をさ
れてから、修験の法にたよるものが少なくなり、
親鸞聖人を蛇蝎のごとくに怨んだ。(弁円は)弟
子35人と謀り、ついに聖人を殺害しようと、板敷
山南麓の空いた庵(今の大覚寺)にて、聖人の
ご教化の行き帰りをしばらく狙っていたが、聖人
を襲うことができなかった。そこで板敷山の山頂
に護摩壇を築き、三日三晩にわたり修法するが
何の効験もなく、ますます怒りをつのらせ、刀杖
を携え単身稲田に推参したと記しています。
弁円が親鸞聖人を狙った板敷山は稲田の草
庵の南に位置し、稲田から常陸国の国府(今の
石岡市)へまた霞ヶ浦に出て鹿島神宮へ通ずる
道でありました。
板敷山の山頂には弁円が護摩を焚いたと伝え
られる護摩壇跡があります。
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