南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)     

「お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)」より

【 純心寺ホームページ法話「お釈迦さま物語」 http://www.junshinji.org/osyakasamamonogatari.html

純心寺住職 曽我弘章



阿弥陀如来像
                           

南無阿弥陀仏とは


 私たちには、現在においてこそ救いが必要なのです。

 縁によって生まれ、縁によって生き、そして縁によって生涯を終えるのが自然な人生です。しかしながら、「あるがまま、ありのまま」に自分の生死を受け入れられないで、現在の生に苦しむ衆生がいます。
 現在の生をなおざりにして、この世に生まれた本当の幸せというものに遇えなくて、どこに救いの価値がありましょう。救いを求めるままで終わる人生は悲しいです。

 私たちは、生死のことで、また自分の身体、言葉、心(身口意)による行為(業)などで苦悩をかかえています。
 そこでお釈迦さまは、衆生の苦悩の原因を明らかにされました。そして、色々な事象で精神的、肉体的に苦しむ私たちを抱きあたためて、必ず幸せにするという大慈悲があることを教えてくださいました。私たちが、すでに、あたたかく広々としたいのち(無量寿)の中に生かされていることを教えてくださったのです。
 また、日ごろ感謝することさえ忘れている多くの恵み、やさしさや思いやり、うれしいことや楽しいことに気づいて、かけがえのない一日一日を大事に生きてほしいと願ってくださいました。
 その上でお釈迦さまは、「あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、私が必ず助けて幸せにします。必ず仏(真実に目覚めたもの)にします」と誓われて、阿弥陀如来(無量寿如来)となられた法蔵菩薩のお心(本願)を知らされたのです(仏説無量寿経)

 そのときから、「無常の中、自らの行為によって深く重い罪を背負い、多くの煩悩をかかえて生きているあなたを、必ず救い取って絶対に見捨てはしません
(摂取不捨)」と仰せられる阿弥陀さま(阿弥陀如来)と、自分の力で苦悩を断ち切ろうとしてみても、結局迷いから離れることができない私が、「私のいのちに帰しなさい」というお呼び声によって固い絆で結ばれたのです(帰命無量寿如来)
 「あなたをどうしても救わなければならないのです
(慈悲)」、「あなたを必ず助けます(智慧)」と、衆生救済のために名告り出られた「南無阿弥陀仏」の名号は、阿弥陀さまのお呼び声であり、お働きです。何が幸せなのかということもはっきりわからないままに苦悩する私たちを見つめられ、自らのいのちをかけて呼びかけずにはいられない阿弥陀さまの声、お心そのものなのです。

 「南無阿弥陀仏」は真実です。「真実」と簡単に申しましても、真実そのものには具体的な色も形もありませんから、理解するのはたいへん難しいことです。
 私たちは無意識のうちに、物事を自分の思い通りにしたいという偏った自己中心の目で見ますから、ますますありのままの真実が見えなくなります
。物事を科学的、合理的に考えることができるようになったからといって、苦しみや悩みから解放されるわけではありません。
 そこで、苦悩の原因となっている心のありようを深く見つめ明らかにされたうえで、私たちにも感じ取ることができる言葉で説いてくださったお釈迦さまの教え
(お釈迦さまのさとられた真理、気づかれた真実)を、すべてのいのちを救済する嘘や偽りがない真実の声「南無阿弥陀仏」を聞くのです。
 お釈迦さまの教えを聞くということは、自分の意のままになる人生を求めていた私の胸中に起こってくる無常感や罪悪感などを縁として、宇宙もこの世もこの人生も何もかもが因縁によって生じ起こっている(縁起)という一切の執着を離れた自然の道理に気づくことです。

 
私たちは「縁起を見るものは、法を見る。法を見るものは、仏(真実)を見る」と仰せられたお釈迦さまが、気づかれ称えられた、「南無阿弥陀仏」という真実の声(真実心)を聞くのです。真実の声を聞くということは、仏さまのお心に接することです。仏さまのお心に接するということは、慈光に照らされて浮かびあがるありのままの私(自己)を見つめるということです。
 そして、本当の自分に気づいていく私は、永久不変の「真理法性真如」と表現され、私たちのはからいがまったく加わらない「あるがまま、ありのままの真実世界」から、形のないものを受け入れることができない煩悩具足の衆生のもとへ、真実に導く手だてとして来られた(あらわされた)阿弥陀と名づけられる如来と、「人間的情感の世界」で触れ合っていくのです。

 
私たちは、経典やその注釈書はいうまでもなく、人間のはからいを超え自ずからそうなっている自然の真理を人格化した阿弥陀如来像(方便法身尊形)なども一つの縁として、真実に触れるのです。阿弥陀如来のお姿をあらわした絵像や木像などの姿形は、衆生を真実の教えに導くための手だてであり、「南無阿弥陀仏」の衆生救済の「働き」を見る(思い起こす)手がかりです。
 言い添えますと、衆生の心が
自然に仏さまの真理を見きわめる智慧と、穏やかで安らかな慈悲に満たされることを念じて表現された阿弥陀如来の姿形は、経典(仏説観無量寿経)に基づいています。その如来像は、出家後、さとりを開き仏となられた釈迦如来のお姿を手本にされていますから、当然、阿弥陀如来の姿形も釈迦如来のお姿を基にあらわされています。
 要するに、色々な手だてによる「あたたかな心情の世界」で、「阿弥陀と名づけられた仏さま(真実)と「私たち(衆生)は接しているのです


 さて、阿弥陀如来の真実について、もう少し詳しくお話いたします。
 阿弥陀さまは、自らの名である「南無阿弥陀仏(名号)」に、自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて呼びかけていてくださる仏さまですから、私たちが称える「名号そのものが阿弥陀如来」です。
 と申しましても、私たちの耳に届く念仏は、私たちが発した「南無阿弥陀仏」という言葉がそのまま私たちの耳に聞
(聴)こえているだけのように思われるかもしれません。しかし、この言葉の中身こそ心に響いてくる「真実の声(いのち)」なのです。
 阿弥陀さまは、「私がいます。あなたのいのちの帰る故郷(浄土)もあります。私は、どこまでもあなたと一緒にいます」と呼びかけていてくださいます。その一途なお呼び声である「南無阿弥陀仏」を一度でも、十度でも・・・・・、回数にこだわらず称えて(乃至十念)、聞いて、ご返事をする私は
(称名、聞名)、喜びも苦しみも悲しみも阿弥陀さまと一緒です。もったいないことですが、「あなたのいのちを救いたい」という願いそのものの阿弥陀さまの幸せと、その救いの中に生きる私たちの幸せは一つです

 私たちは、自分でさとろう、救われよう、お念仏を称えようと力まなくてもよいのです。なぜなら信心は、私が阿弥陀さまを信じる努力によって生まれるものではないからです。自らが作りあげた信心は、一時的な思い込みで終わる場合が多く、信ずることで得たと思った喜びや感動もいつの間にか消えてしまいます。

 私が救われるのは、私の何もかもをご存じのうえで、「あなたを必ず助けます」と誓われて仏となられた阿弥陀さまの一途な願い、一人働きによるからです。それは、私たちの「はからい」を超えた、阿弥陀さまのお力
(如来の本願力、他力)による無条件の救済です


 例えば、
幼くして亡くなった子は、不慮の事故や災害や病気などによって信仰を求める前に亡くなった人は、常に苦しむ心弱きものは・・・・・、もう救われないのでしょうか。
 一生懸命に祈ったり拝んだりしていなくても、「私はあなたを見捨てることはできません。必ず助けます」と、そっと抱いてくださるあたたかな世界はないのでしょう
か。

 無条件の救済ということは、あらゆるいのちが平等に救われるということです。逆に、少しでも救われるための条件があれば、そこには必ず救われないいのちが出てまいります。阿弥陀さまにとって、これほどつらいことはないのです。


 私たちは、何の見返りも求められない、人知ではとても量り知れない慈悲ばかりの阿弥陀さまのお心を聞いて、すでに救われることが約束されている私であることを知り、その真意を、ただ「南無阿弥陀仏」を、この胸にいただくだけです(如来回向の信、真実信心)
 「私の心には、嘘や偽り(虚仮)がいっぱいあります。それなのに、阿弥陀さまのお心の中はまこと(真実)ばかりなのですね。阿弥陀さまに嘘や偽りがないから、『南無阿弥陀仏』に間違いがないのですね」と「名号」をいただくだけです。

 阿弥陀さまが
法蔵菩薩であられたとき、「私の声が聞こえますか。私はあなたを救う仏になります」と本願(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)を起こされたのは、どうしても救わずにはいられない衆生がここにいるからです。

 誰でも、ふと過去の出来事(行為)
を思い出し、申し訳ない気持ちや恥ずかしさで胸が痛むことがあります。後悔と反省から、今の性格や行動を良きものに変えたいと思っても、変われない自分にますます落ち込むこともあります。
 このような深く重い罪悪感にさいなまれながら、尽きることのない煩悩を抱えもって生きている私に対して罰を与えられるのではなく、逆に、「どのようなあなたであっても、決して見捨てはしません」と慈しみをもって救い取ってくださるのが阿弥陀さまです。

 過去の間違った行為による良心の呵責、負い目が消えるわけではありませんが、何もかも承知で、「あなたはあなたのままでいい」とあたたかく包み込んでくださるお心を聞いて、「わたし(自我)」の性根が見えて、頭が下がって、思いあがっていたわが身の愚かさに驚くしかありません。


 愚かさの一例をあげてみます。
 私たちは、おだやかな気持ちのときには愚痴や悪口を言わないで、感謝の思いと謙虚さも忘れず、思いやりのあるやさしい人間であるように努めることができるかもしれません。そうありたいと思います。
 しかし、煩悩を刺激する縁に触れれば、たちまち欲が、怒りが、妬みが起こり、他を批判する心は激しくなり、相手を思いやる心は少なくなり、自らを省みることは忘れ・・・・・。
 もっと言えば、自分自身のことは自分なりに理解しているつもりでいても、実は、心の奥底はわかっていないのです。ですから、煩悩の炎が燃えあがると、「わたし」の中から次にどのような愚かな思いや行為が出てくるのか自分にもわからないのです


 それなのに、このような私たちを包み込む大きないのちがあります。本来、悪行の酬いとして地獄の世界に落ちても不思議ではない私を、「南無阿弥陀仏」の一声をもって抱き取り、この赦されるはずのない私を赦さずにはいられない、救われざる私を救わずにはいられない大慈悲心があったのです(「唯除五逆 誹謗正法」のお心の真意)
 
阿弥陀さまは、悪いことはしないように望まれますが、それでもやむなく過ちを犯し悪業を造ってしまう衆生がいれば、どうしても見過ごしにできず「私の声が聞こえますか。私があなたを助けます」と呼びかけ、大慈悲をもって救済に動かれるのです。
 「救いとは何ですか」、「何が救われるのですか」などとあやふやに過ごしている衆生を、「とにかく助けます」と理屈抜きに抱き上げられる大慈悲に対して私たちにできることは、この大きないのちの「お働き」にハッと気づいて、阿弥陀さまが自らの名をもって呼びかけられるお呼び声、「南無阿弥陀仏」をそのまま受け取ることだけです。
 注がれている深い慈しみの心に触れて、すでに「救いの中に生きている私」に気づくことこそが、救いです
(現生正定聚)


 阿弥陀さまの存在や極楽浄土の有無を知的理解によって確認しても、心は晴れず、信じられるか信じられないかの問題で終わってしまうかもしれません。
 救いの中に生きるということは、阿弥陀さまのお心(すべてのいのちを救いたいという願いそのもの)に触れた私が、「このいのち、このまますべて阿弥陀さま(真実)におまかせいたします」という世界に立つことです。
 とは申しましても、我がいのちを他に委ねきることができないのが衆生です。私たちは、ともすれば自分の煩悩の深きことを忘れて仏法をとらえます。「自分のはからい」から、離れられません。素直に阿弥陀さまのお心を受け入れることが難しいのです。
 だからこそ、如来に抵抗する私をどこまでも見捨てないで、まるごと引き受けて、「何もかもわかっています」とあたたかな慈悲の世界に抱き取ってくださる
阿弥陀さまのお心を、煩悩の深きまま聞かせていただくのです(聞法)
 そして、まっすぐに生きることができない私が、仏さまの教えに照らされた一筋の如来の道(阿弥陀さまのお心)に立ちかえりながら、日々、新たに生かさせていただくのです。


 私たちは、私をこの世に存在させた大いなるいのち(無為自然)へ帰っていくまで、安らかで浄らかな「自然の浄土」に往生する日まで、毎日新たないのちを、二度とない今日一日を生きるのです。
 それぞれのいのちが幸せであってほしいと願いながら、わが身をかえりみつつ、失敗を繰り返しながらも「今日こそ、きちんと生きてみよう」という気持ちを忘れないで、因縁のままにこの世のつとめを果たそうではありませんか。

 自分にとって良いことは受け入れるが、その反対は受け入れられないというのでは、常に不安と苦悩の絶えない生活となります。紙の表と裏を切り離せないように、生死、苦楽、幸不幸などの問題も切り離すことはできません。
 しかし、私たちは、どのような状態であっても慈しみの光に照らし護られています。若
かろうと老いようと、健康だろうと病弱だろうと、親しい人がいようと孤独だろうと、裕福だろうと貧乏だろうと、好かれようと嫌われようと・・・・・、思い通りにいかない人生です(業道自然)が、ただ一つ、このいのちをどこまでも見捨てずにいてくださる世界に生きられることほど力強いものはありません。
 一人で生まれ、一人で人生を終えなければならない私たちが
(独生、独死、独去、独来)、阿弥陀さまの衆生救済の働き(阿弥陀如来の本願力)に私のいのちのすべてをおまかせして生きることは、弱いようで、実は何よりも強い生き方なのです。

 阿弥陀さまのことを思うときも、忘れているときも、お浄土に生れることを喜べないときも
[別稿 (浄土に生まれることを喜べないものこそ 「歎異抄第九条」)、常に阿弥陀さまの懐に抱かれているいのちです。
 私の何もかもをわかっておられる阿弥陀さま
(親)と、阿弥陀さまにすべてをおまかせした私(子)との絆ほど、自然で、安らかなものはありません(願力自然)


 私は、あなたを助けるために、南無阿弥陀仏の名号となってここに来ました。あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、必ず助け、救って幸せにします」、「より善い人間に変わりたくても変われないあなたは、それが自分の姿だと受け止めて、申し訳ないという思いを大切にしながら、ありのまま(煩悩をかかえたまま)生きてゆきなさい」、「いつでも私は、あなたとともにいます。いつまでも一緒です」という阿弥陀さまのお心を受け取ったそのときから、どこまでも凡夫としてしか生きていけない私にとっての阿弥陀さまは、「真実を知らせる手だて(方便)である」とか、「理念である」などという言葉も思想も超越した、まさに「私のいのちそのもの」の存在となられました。


 お念仏は、無理に称えるものでも、力んで申すものでもありません。また、称えようと思っても、ともすれば自分の常識や知識が邪魔をしてなかなか称えられないものです。それにしても、私たちの口から「南無阿弥陀仏」が出てくださる(称える)ということは容易なことではないようです。
 しかし、私たちは、私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形となられてまでして、衆生を救いに来てくださっている「阿弥陀さまの願い」を知らされた身ですから、素直に「南無阿弥陀仏」を称えさせていただきましょう。人の前で都合が悪ければ、一人静かに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 
うれしいとき、悲しいとき、さみしいとき、苦しいとき、腹が立つとき、自己嫌悪に陥ったとき、阿弥陀さまを思うとき・・・・・、そして申しわけないことですが、お念仏がありがたくも何ともないときでさえも、そのときの心のままに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 いずれにしても、尊い「名号」です

 そして、お念仏を忘れている自分に気づいたら、そのときからまた「南無阿弥陀仏」と申させていただけばよいのです。お念仏を称えるのに、一々理屈や理由はいらないのです。
 私たちがお念仏を称えようと称えまいと、阿弥陀さまを思おうと思うまいと、阿弥陀さまはずっと私たちを思い呼びかけていてくださいます
大悲無倦常照我)


 
「法蔵菩薩」は、清浄真実の心を持たない私たちを助けたい一心で、衆生救済の誓いのもと、五劫もの思惟による発願と兆載永劫という途方もないご苦労をされました。そして、十劫のいにしえに「名号」を成就されて「阿弥陀如来」となられました(仏願の生起本末)
 その「法蔵菩薩」の願いとご苦労が花開き実を結ぶときが、私の称えさせていただく「南無阿弥陀仏」です。「阿弥陀」と名づけられた「如来」の真実が、今、まさにわが身の上に成就されているのです。

 「南無阿弥陀仏(名号)」は、いくら称えてもなくなるということはありません。
 その理由は、尽きることなく私たちの心に届く「南無阿弥陀仏」の源流こそが、阿弥陀さまから発せられるお呼び声だからです。「私の声が聞こえますか。あなたのいのちが大切です。どのようなあなたであっても、私が必ず助けます。必ず救って幸せにします」と呼びかけ働き続けていてくださる阿弥陀さまの真実心だからです


 一声の「南無阿弥陀仏」があってこそ、次の「南無阿弥陀仏」に遇えるのです。そして、次々に「南無阿弥陀仏」
に包まれてゆくのです。
 ある日、凡夫が「ナンマンダブ」とつぶやくのです。お念仏を申すことが難しいはずの私の口から「ナンマンダブ」が・・・・・。「ナンマンダブ」をつぶやいている自分に気づき、それがうれしくて、また「ナンマンダブ」を称えている私です
(称名、聞名)
 「南無阿弥陀仏」のお心をいただいたら、何もかもが「無量寿」の中にあり、「無量光」とともにあることに気づきました。

 また、阿弥陀さまの
願いの中に生きる私たちにとって、「称名念仏」は、私たちを慈しみ支えてくださっている阿弥陀さまの「お呼び声」であるとともに、救いの中に生かされている私たちにできる阿弥陀さまへの「ご返事」、せめてもの「ご恩報謝のつとめ」でもあります。
 なぜならば、
阿弥陀さまと対話しながら、お心に包まれながらお念仏を申して生きるということは、どこかで、誰かに、
阿弥陀さまの「あなたを必ず救って、幸せにします」という真実のお呼び声(南無阿弥陀仏)を聞いていただくご縁となるのですから・・・・・(自利利他)






阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは



 阿弥陀さまは、私たちにはとてもり知れない光無量光といのち無量寿の仏さま(真実)です。

 すべてのいのちを包み込んで救い取られる阿弥陀さまのことを、古代インドの言葉である梵語
(サンスクリット語)では、「アミターバ、Amitābha(限りない光)」、「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」と申します。後に、その言葉が中国に伝わり、翻訳者によって「アミタ、Amitā(無量=量ることができない、限りがない)」が「阿弥陀」と、梵語の発音がそのまま漢字に写されました(音写、音訳)
  無量
(限りない時間と空間)という無限大の広々とした世界です。

 永遠に変わらない、過去も、今も、未来も不変の真理である「あるがまま、ありのまま」の無上の仏さまは「真実」そのもので、私たちに認識できるような色も形もおありではありません。それゆえ、私たちにも「真実」が認識できるように声、「南無阿弥陀仏
(名号)」という姿形をもってあらわされた仏さまが「阿弥陀如来」です。
 このように申しますと、私たちの幸せのために限りなく尽くしてくださる、この上なく慈悲深い姿形の阿弥陀さまは、具象化し人格化された仏さまのように見えますが、実は、この仏さまの本質こそが私たちに認識できる真実、宇宙のいのちそのものであられるのです。
 そして、その「真実」は「阿弥陀仏」と名づけられ、「無量光仏
(限りなき光の仏)」、「無量寿仏(限りなきいのちの仏)」と表現されました。

 お釈迦さまが、「人生は苦しみです」と仰せられたように、苦しみというものは数限りがありません。生・老・病・死の四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦の四苦を加えたものを八苦と申します[別稿 (人生という旅 )]
 それぞれがたいへんな苦しみですが、阿弥陀さまは、その一つひとつの苦悩にそれはそれは大きな慈しみとあわれみの心(大慈悲)をもって接していてくださいます。

 例えば、「愛別離苦」という悲しい、忘れることもどうすることもできない苦しみ一つをみても、大きな大きな救いの手が差し伸べられています。

 「法蔵」という菩薩さまは、「すべてのいのちを見捨てることなく、必ず浄土に救い取ります。もしも、救えないいのちが一つでもあれば、私自身も仏にはなりません」という誓いを成就されて、「阿弥陀」という名の仏さま(如来)となられました。


 いのちの救済のすべては、この阿弥陀さまのお心(誓願)から始まります。

 阿弥陀さまは、私たちを外からながめてあわれんでおられるのではありません。阿弥陀さまにとって、私たちの痛み悲しみは自身の痛み悲しみなのです。「あなたが救われ幸せになれないのなら、私も仏にはなりません」と仰せられるのです。自身のいのちと私たちのいのちが一体であると、心底信じていてくださるのです。
 そのため、この世ではどのような形にしろ必ず別れゆかなければならないいのちといのちが、「どうしてもあなたを救い、幸せにしたいのです」と仰せられる阿弥陀さまに抱き取られて、ともに安らかで浄らかなお浄土に導かれて往くのです

 別れに
対して無力な私たちは、「あなたを必ず浄土に救い取ります」と誓われて仏となられた阿弥陀さまの一途な願いにこの身を預けて、安らかで浄らかなお浄土(仏さまの世界。一切の煩悩やけがれを離れた、清浄なやすらぎの世界。阿弥陀如来の衆生救済活動に参加させていただき、このいのちが役立つ世界)に往くのです。
 孤独に散っていくのではなく、輝くいのちとしてお浄土に生かされていくのです。その結果、救われたかけがえのないいのちといのちが再び出会うのです。必ず再会するのです
(倶会一処)


 季節がめぐっても忘れられない死別した愛する人、つらい別れをしたなつかしい人、会いたくても二度と会えない大切な人・・・・・、「愛別離苦」という事実には別れという悲しみだけが残るはずなのに、ところが阿弥陀さまのお力により悲しみを超えて、もう苦しまなくてもよい、苦悩という言葉さえないあたたかな世界で再会するのです。ということは、今すでに私たちは、そばにいてほしい人、そばにいてあげたい人との再会に向けて、その道行きを歩み始めているのです。
 この世では色々あったけれども、一切の執着を離れた慈悲ばかりのお浄土で、如来に救われたいのちといのちが真実の出会い
(出遇い)をさせていただくのです。遠いようで近い世界です。まさに、「すべてのいのちあるものを仏にしたい」という願いを起こし、その願いを成就された阿弥陀さまの世界です。
 それは、単に未来の浄土往生を待ち望むということではなく、お浄土に救い取っていただくことが決まった身であることを喜びながら、一日一日を大事に生きることです。その日そのときのご縁を、生涯に一度限りのことと大切にいただくのです(一期一会)。そうした自覚をもって生きるところに、人生の意義が見いだされるのではないでしょうか。

 お浄土は、私たちが知的に理解することが難しい世界です。しかしその世界は、安心して休息できる場所であるとともに、私たちのはからいから離れた、限りない願い(本願)の世界なのです。
 お浄土は、阿弥陀さま
(真実)に抱かれて救われていく、私たちの思慮分別を超えた真実世界です。真実にまかせきった、私たちのいのちが帰する、光といのちの世界(無量光明土)なのです。

 また、私たちの苦しみや悲しみを自分の痛みとされ、「どうしても、あなたを助けます」と行動を起こされた阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」とも「無量寿如来」とも申しあげます。広々と量り知れない、限りない光智慧といのち慈悲の如来さまです。
 「如来」さまとは、梵語で「タターガタ、Tathāgata」と申し、「真如
(あるがままの真実、真理そのもの)から、このようにいのちを救うためにやって来た」という意味で「働き」をあらわす言葉です。要するに「永久不変の真理、法性、真〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。

 私たちのところへ「南無阿弥陀仏」の名号となって来られた阿弥陀さまは、いつでもどこでもありとあらゆるところで(尽十方)
、何ものにもさまたげられることのない智慧と慈悲の光明をもって(無碍光)すべてのいのちを救い取られます。
 それゆえ、「南無阿弥陀仏」の名号を「帰命尽十方無碍光如来」とも申しあげます。


 煩悩を抱えて生きていくしかない私たちの傍らに、そっと寄り添っていてくださる阿弥陀さまです。私たちから離れて、「真実の働き」があるわけではないのです。
 
私たちは、衆生救済の「お働き」である無碍光如来の名「南無阿弥陀仏」を聞き称えつつ、因縁によって生起する現実を受け入れながら、生かされている日々を大切に過ごします



《 光といのち、空間と時間、見えるもの見えないもの・・・・・、何もかもが 「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)」です。》



※ 『阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)
の別名
 如来の「大慈悲」のお心、お働きを讃嘆して、「阿弥陀仏」、 「無量寿如来」、 「無量光仏」、 「無量寿仏」、 「不可思議光如来」、 「無碍光仏」、 「無碍光如来」、「Amida Buddha」、「Amitābha Tathāgata」 ・・・・・などと称されます。


        


● 『阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という声となり、手話となり、点字となり・・・・・、いろんな声の姿となって呼びかけてくださいます。 うれしいとき、さみしいとき、悲しいとき・・・・・、私は阿弥陀さまとそっとお話をするのですよ。 ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・と。』 (藤原瑞枝さん)

『仏さまの言葉は、「まぁゆっくりしておいで、そのままでいいんだよ」と聞こえてくる。 するとその人は、元気が出てきて、「よーし」と、さらに歩みをはじめるのでしょうね』 (圓日成道師)

● 『与えられたいのちの不思議にめざめ 人間のおごりをすて すべてのいのちを大切にしよう。 えがたくかぎられた かけがえのない人生 ともに尊ぶ世界をひらこう』 (二葉憲香師)


● 『阿弥陀如来は衆生の仏性を見つけて信じた。 阿弥陀如来は衆生の本心を見抜き、衆生を信じて本願を起した。 信は仏にある。 ただ一方的に仏を信ぜよというのでない。 我々が仏を信じていようがいまいが、先ず仏は我等を無条件に信じ念じておられる。 その証拠が南無阿弥陀仏である』 (曽我量深師)

● 『その自分の耳にも法を聴聞する手がかりがあります。 その眼にも仏を見る手がかりがあります。 その口にも仏を讃歎する可能性をもっております。 身・口・意の三業、すべて煩悩で固められた罪業深重の器がそのまま仏の道に役立つ可能性をもっております。 もちろんそれは仏のみ教えによって、仏の智慧に照らされて、自分の心が開かれるからであります』
  『称名念仏は初めからひとりでに出て来るものではありません。 自由に言えるように言い慣らさねばならぬのです。 念仏は称えるというよりも身につくものであります。 念仏が身につくと自然に出て来るようになるのです。 念仏は初めは稽古せねばならぬのです。(中略) ただ念仏を称えておることは容易なことのようでありますけれど、それが人間の口から出るということは容易なことではないのであります。(中略) そういう人が南無阿弥陀仏と称えるようになって称えるのです。 その他に求めるものは何もないのです。 信心が南無阿弥陀仏となって現れて来たのです。 南無阿弥陀仏と称えるようになった時に、既に心の中に阿弥陀仏
〈阿弥陀如来〉のお徳がしみこんでいるのであります』 (暁烏敏師)

● 『世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり』 (聖徳太子)

● 『凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり』 (親鸞聖人)

● 『煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします』 (親鸞聖人)

● 『誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞
〈親鸞〉、愛欲の広海に沈没し、名利〈名誉や利益〉の太山に迷惑して、定聚の数〈浄土に生まれて仏になる仲間の数〉に入ることを喜ばず、真証の証〈仏のさとり〉に近づくことを快しまざる〈うれしいとも思わない〉ことを、恥づべし傷むべし』 (親鸞聖人)

● 『いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に』 (九条武子夫人)

● 『智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし』 (法然上人)

● 『弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし』 (親鸞聖人)

● 『十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる』 (親鸞聖人)


● 『生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ずわたしける』 (親鸞聖人)


● 『煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり』 (親鸞聖人)

この「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来)」は、2012年(平成24年)4月より掲載しています。最後までお読みいただきありがとうございました。このご縁に感謝いたします。




《聖人一流章 (意訳) 「御文章五帖目第十通」》

 親鸞さま
(親鸞聖人)のお勧めになった浄土真宗の趣旨は、無常の中、自らの行為によって深く重い罪を背負い、多くの煩悩をかかえて生きている私たちの何もかもをご存じのうえで、「あなたを必ず助けます」と誓われて仏となられた「阿弥陀さまのお心(阿弥陀如来の真実信心)」がすべてです。
 「あなたをどうしても救わなければならないのです」という、何の見返りも求められない慈悲ばかりの阿弥陀さまの願いを知らされたとき、私たちはそのお心
(衆生済度のお働き)をそのままいただいたのです(信心)
 私たちのいただくところの信心が、もともと「あなたを必ず助けます」という阿弥陀さまのお心であるということは、なんと尊いことでしょう。

 そのわけは、私たちが生死の問題を解決するために、自己中心のはからいを交えたもろもろの行為をたよりとしないで、「あなたを必ず助けます。私に帰しなさい」と、すべてのいのちに分け隔てなく呼びかけられる阿弥陀さまの声、「南無阿弥陀仏」にこのいのちを委ねますと、人知ではとてもはかり知れない本願のお力によって、このいのちが真実のさとりの世界である安らかで浄らかなお浄土に救い取られるからです。

 このように、救いの中に生きる喜び、お浄土
(真実世界)に生まれることが定まった境地について曇鸞さま(曇鸞大師)は、「私たちは、阿弥陀さまのすべてのいのちを救いたいという一途な願いに気づいて、そのお心をいただいたとき、安らかで浄らかなお浄土で必ず仏にしていただくことを喜ぶいのちの仲間に入るのです」と註釈をしてくださいました。
 すなわち、私たちがお浄土に往生することに間違いはなく、少しも疑いの余地がないことをお示しくださったのです。

 そして、そのうえでの称名念仏は、自らの名である「南無阿弥陀仏
(名号)」に自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて、私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形となられて呼びかけられる阿弥陀さまのお名乗りであるとともに、お浄土に往くことが定められて限りなきいのちをいただいた私たちのご返事(感謝の心、ご恩報尽の念仏)でもあると、そのように心得させていただきましょう。ナマンダブ、ナマンダブ・・・・・、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・。謹んで申し上げます。 (蓮如上人)


《称名・聞名の集い》
◇日時 毎月15日 / 午後1時30分 ~ 3時30分
◇会場  純心寺(成田市加良部4-4-13 成田国際高校のそば)
◇読経 「正信偈(正信念佛偈)」、「法話」
※お念仏を称えるご縁に会いたい方や、阿弥陀さまのお呼び声を聞くご縁に会いたい方でしたら、どなたでも参加は自由です。


「お念仏の声」 《称名・聞名の集い》 (動画)





   


浄土真宗本願寺派  純心寺
〒286-0036  千葉県成田市加良部4-4-13  ℡:0476-28-4103

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