阿弥陀如来 (南無阿弥陀仏) 


「 お釈迦さま物語 (釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い) 」より
 http://www.junshinji.org/osyakasamamonogatari.html

                                                    純心寺住職 曽我弘章





阿弥陀如来像



                           

【序】 法蔵菩薩の願い


 それは、お釈迦さまがラージャグリハ(王舎城)の霊鷲山に住まわれていたときのことでした。

 そのときお釈迦さまは、「私がこの世に生まれてきた目的は、すべてのいのちを仏にしたいという願いを起こし、その願いを成就された仏さまの存在を伝えるためです。その仏さまが法蔵という名の菩薩であられたとき・・・・・」と、私たちを助けるための手だてを語られはじめました。
 それは、お釈迦さまがさとられた真実を、私たちにも理解できるように、姿形と言葉をもって象徴表現された法蔵菩薩(阿弥陀如来)のお話です。


 法蔵菩薩は、衆生を見つめられました。そして、苦悩するものを救い取って仏にする願い(本願)を起こされました。どうすれば助けることができるだろうかと考え続けられました(五劫思惟之摂受)
 そして、私たちのすべてを知り尽くされたうえで、「そのままのあなたを助けます」と一切の条件をつけないで救い取ることを誓われ
誓願、言葉では言い表せない、それはそれはたいへんなご苦労を重ねられました。
 その結果、法蔵菩薩は衆生救済の願いを成就されて阿弥陀如来
(阿弥陀さま)となられ、安らかで浄らかなお浄土(極楽浄土)を設けるにいたられました。

 阿弥陀さまは、「私の声が聞こえますか。私はあなたを必ず救います」と約束してくださいました。そして、自らの名
(名号)をもって呼びかけられました。「南無阿弥陀仏」と。
 ついに、法蔵菩薩の大いなる願いであった衆生救済活動が始まったのです。

 縁によって生まれ、縁によって生き、そして縁によって生涯を終えるのが自然な人生です。しかしながら、「あるがまま、ありのまま」に自分の生死を受け入れられないで苦しんでいる人がいます。また、現在の生に苦しんでいる人がいます。
 現在の生をなおざりにして、この世に生まれた本当の幸せというものに遇えなくて、どこに救いの価値がありましょう。救いを求めるままで終わる人生は悲しいです。私たちには、現在においてこそ救いが必要なのです。

 お釈迦さま
(釈迦如来)は、悩み、苦しみ、悲しみの原因を明らかにされました。
 そして、
「衆生を、必ず仏(真実に目覚めたもの)にします」と誓われて阿弥陀さま(阿弥陀如来)となられた法蔵菩薩のお心、真実の願い(本願)を知らされました(仏説無量寿経) 私たちがすでに、量り知れない光といのちの中に生かされていることを教えてくださったのです。

 そのときから、「あなたを、必ず幸せにします」と仰せられる阿弥陀さまと、自分の力で苦悩を断ち切ろうとしても、結局迷いから離れることができないものが、「絶対に見捨てません(摂取不捨)」というお呼び声によって固い絆で結ばれました。


 お釈迦さまは、「縁起を見るものは、法を見る。法を見るものは、仏(真実)を見る」と仰せられました。私たちも、お釈迦さまが見られた自然の道理を、法を、真実を見るのです。真実を見るために、永久不変の「真理法性真如」と表現される真実世界から、私たちを真実なる世界へ導く「阿弥陀」と名づけられる如来の真実心を聞くのです。そして、その如来と情感の世界で触れ合うのです。

 「南無阿弥陀仏」と、称えられる声という姿をもって名告り出られた「弥陀の名号」は、自らのいのちをかけて呼びかけられる阿弥陀さまの働き(衆生救済活動)そのものです





                           


【一】 阿弥陀さま(阿弥陀如来)


 阿弥陀さまは、私たちにはとてもり知れない光無量光といのち無量寿の仏さま(真実)です。

 すべてのいのちを包み込んで救い取られる阿弥陀さまのことを、古代インドの言葉である梵語(サンスクリット語)では、「アミターバ、Amitābha(限りない光)」、「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」と申します。後に、その言葉が中国に伝わり、翻訳者によって「アミタ、Amitā(無量=量ることができない、限りがない)」が「阿弥陀」と、梵語の発音がそのまま漢字に写されました(音写、音訳)

 永遠に変わらない、過去も、今も、未来も不変の真理である無上の仏さまは「真実」そのもので、私たちに認識できるような色や形がおありではありません。それゆえ、私たちにも「真実」が認識できるように姿形をもってあらわされた仏さまが「阿弥陀如来」です。
 このように申しますと、私たちの幸せのために尽くしてくださる阿弥陀さまは、具象化し人格化された仏さまのように見えますが、実は、この仏さまの本質こそが私たちに認識できる真実そのものであられるのです。

 また、阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」、「無量寿如来」、「尽十方無碍光如来」とも申しあげます。光(智慧)といのち(慈悲)の如来さまです。
 「如来」とは、梵語で「タターガタ、Tathāgata」と申し、「真如(あるがままの真実、真理そのもの)から、このようにいのちを救うためにやって来た」という意味で「働き」をあらわす言葉です。「永久不変の真理、法性、真〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。


 ところで、お釈迦さまは「人生は苦しみです」と仰せられました。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて四苦八苦と申します。 [別稿参照 (人生という旅)]
 阿弥陀さまは、その一つひとつの苦悩に慈しみとあわれみの心をもって接してくださいます。

 いのちの救済は、阿弥陀さまのお心(誓願)から始まります。
 例として、四苦八苦の一つである「愛別離苦」を見てみましょう。出会ったものは、いつか別れなければならないときがきます。生別、死別、どちらにしても愛するものとの別れから逃れることはできません。このつらい別れに悲しむもの、苦しむものに、阿弥陀さまはあたたかな救いの手を差し伸べられます。

 阿弥陀さまは、「すべてのいのちを必ず浄土に救い取ります」とのお誓いを成就されました。
 その結果、この世では必ず別れ往かなければならないいのちといのちが、時は違えども、共に阿弥陀さまに抱き取られてお浄土に往くのです。
 
無力な私たちは、阿弥陀さまに願われて、安らかで清らかなお浄土(真実世界。一切の煩悩やけがれを離れた、清浄な世界。阿弥陀如来の衆生救済活動〈働き〉に参加し、私たちのいのちが生かされていく世界)に往くのです。
 孤独に散っていくのではなく、輝くいのちとして生かされていくのです。その結果、救い取られたいのちといのちがお浄土(さとりの世界)で再び出会うのです
(俱会一処)

 季節がめぐっても忘れられない愛する人、つらい別れをしたなつかしい人、会いたくても二度と会えない大切な人・・・・・、「愛別離苦」という事実には悲しみだけが残るはずなのに、ところが悲しみを超えて、もう苦しまなくてもよい、苦悩という言葉さえないあたたかな世界で再会することが約束されているのです。一切の執着を離れた慈悲ばかりのお浄土で、救われたいのちといのちが真実の出会いをさせていただくのです。

 お浄土は
、私たちの思慮分別を超えた真実世界です。真実にまかせきった、私たちのいのちが帰する、光といのちの世界(無量光明土)です。






【二】 南無阿弥陀仏


 さて、阿弥陀さま(阿弥陀如来、南無阿弥陀仏)について、もう少し詳しくお話いたします。
 阿弥陀さまは、「あなたを必ず救います」と、自らの名である「南無阿弥陀仏
(名号)」に、自身のいのちのすべて(全功徳)を込めて呼びかけてくださいます。
 私たちが救われるのは、この阿弥陀さまの一途な願い、衆生を救済される働きによるのです。

 私たちは、何の見返りも求められない、人知ではとても量り知れない阿弥陀さまのお心を知り、その真意をこの胸にいただくだけです(如来回向の信、真実信心
 阿弥陀さまが法蔵菩薩であられたとき、「私の声が聞こえますか。私はあなたを救う仏になります。もし、あなたを救うことができなければ、私も仏にはなりません」」と本願(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)を起こされ呼びかけられたのは、紛れもなく助けを要する衆生がいるからです。

 私たちは、ふと過去の行ないを思い出し、申し訳ない気持ちで胸が痛むことがあります。また、性格や行動を良きものに変えようとしても、変わることができない自分に、ますます落ち込むこともあります。
 過去の間違った行ないによる良心の呵責、負い目が消えるわけではありませんが、何もかも承知で、「あなたはあなたのままでいい」とあたたかく包み込んでくださるお心を聞いて、自分
の性根が見えて、思いあがっていたわが身の愚かさに驚く
しかありません。


 
愚かさの一例をあげてみます。
 私たちは、
おだやかな気持ちのときには愚痴や悪口を言わないで、感謝の思いと謙虚さも忘れず、思いやりのあるやさしい人間であるように努めることができるかもしれません。
 しかし、煩悩を刺激する縁に触れれば、たちまち欲が、怒りが、妬みが起こり、他を批判する心は激しくなり、相手を思いやる心は少なくなり、自らを省みることは忘れ・・・・・。
 もっと言えば、自分自身のことは自分なりに理解しているつもりでいても、実は、心の奥底はわかっていないのです。ですから、煩悩の炎が燃えあがると、どのような振る舞いをするのか自分にもわからないのです


 
それなのに、このような私たちを包み込む大きないのちがあります。「南無阿弥陀仏」の一声をもって抱き取り、この赦されるはずのないものを赦さずにはいられない、救われざるものを救わずにはいられない大慈悲心があったのです。尽きることのない煩悩を抱えもって生きているものに対して罰を与えられるのではなく、逆に、慈しみをもって救い取ってくださるのが阿弥陀さまです。 [別稿参照 (善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや 「歎異抄第三条」)
 
阿弥陀さまは、悪いことはしないように望まれます。罪を犯させたくないのです。しかし、それでもやむなく過ちを犯し悪業を造ってしまうものがいれば、どうしても見過ごしにできず、救済に動かれるのです(「唯除五逆 誹謗正法」のお心の真意)

 
「救いとは何ですか」、「何が救われるのですか」などとあやふやに過ごしているものを、「とにかく助けます」と理屈抜きに抱き上げられるお慈悲に対して、私たちにできることは阿弥陀さまが自らの名をもって呼びかけられるお呼び声、「南無阿弥陀仏」をそのまま受け取ることだけです。
 注がれている深い慈しみの心に触れて、すでに救いの中に生きていることに気づくことこそが、救いです
(現生正定聚)
阿弥陀さまのお心に触れた私たちが、「このいのち、このまますべて阿弥陀さまにおまかせいたします」という世界に立つのです。

 私たちは、大いなるいのち(無為自然)へ帰っていくまで、安らかで浄らかな「自然の浄土」に往く日まで、毎日新たないのちを、二度とない今日一日を大切に過ごすのです。
 わが身をかえりみつつ、失敗を繰り返しながらも、「今日こそ、きちんと生きてみよう」という気持ちを忘れないで、因縁のままにこの世のつとめを果たそうではありませんか。
 条件を付けないでお救いくださる阿弥陀さまですが、
少しでも阿弥陀さまに喜んでいただけるように正しい道を歩みたいものです。 [別稿参照 (四諦八正道)

 自分にとって良いことは受け入れるが、その反対は受け入れられないというのでは、常に不安と苦悩の絶えない生活となります。紙の表と裏を切り離せないように、生死、苦楽、幸不幸などの問題も切り離すことはできません。
 しかし、私たちは、どのような状態であっても慈しみの光に照らされています。若
かろうと老いようと、健康だろうと病弱だろうと、親しい人がいようと孤独だろうと、好かれようと嫌われようと・・・・・、思い通りにいかない人生ですが、ただ一つ、このいのちをどこまでも見捨てずにいてくださる世界に生きられることほど力強いものはありません。
 一人で生まれ、一人で人生を終えなければならない私たち(独生、独死、独去、独来)が、阿弥陀さまの衆生救済の働き(如来の本願力)にすべてをおまかせして生きることは、弱いようで、実は何よりも強い生き方なのです。

 阿弥陀さまのことを思うときも、忘れているときも、往生浄土を喜べなくても、常に阿弥陀さまの懐に抱かれているいのちです。 [別稿参照
(浄土に生まれることを喜べないものこそ 「歎異抄第九条」)
 何もかもをわかっておられる阿弥陀さま
(いのちの親)と、阿弥陀さまにこのいのちのすべてをおまかせした私たち(仏の子)との絆ほど、自然で、安らかなものはありません(願力自然)



 帰するところ、「南無阿弥陀仏」を称えて(聞いて)みたいという思いが起こったときから、阿弥陀さまは「真実を知らせる手だてである」とか、「理念である」などという言葉も思想も超越した、まさに私たちの「いのちの親」そのものの存在となられました。 [別稿参照 「歎異抄第一条」


 お念仏は、無理に称えるものでも、力んで申すものでもありません。また、自分の常識や知識が、称名の邪魔をする場合もあります。
 しかし、私たちは「阿弥陀さまの願い」を知らされた身ですから、素直に「南無阿弥陀仏」を称えさせていただきましょう。人前で都合が悪ければ、一人静かに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 一声の「南無阿弥陀仏」があってこそ、次の「南無阿弥陀仏」に遇えるのです。そして、次々に「南無阿弥陀仏」に包まれてゆくのです(称名、聞名)
 うれしいとき、悲しいとき、さみしいとき、自己嫌悪に陥ったとき、阿弥陀さまを思うとき・・・・・、そして申しわけないことですが、お念仏がありがたくも何ともないときでさえも、そのときの心のままに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 いずれにしても、尊い「名号」
です。

 そして、お念仏を忘れている自分に気づいたら、そのときからまた「南無阿弥陀仏」と申させていただけばよいのです。
 お念仏を称えるのに、一々理屈や理由はいらないのです。
 私たちがお念仏を称えようと称えまいと、阿弥陀さまを思おうと思うまいと、阿弥陀さまはずっと私たちを思い呼びかけていてくださいます大悲無倦常照我)

 
「法蔵菩薩」は、私たちを助けたい一心で、五劫もの思惟による発願と兆載永劫という途方もないご苦労をされました。そして、十劫のいにしえに「南無阿弥陀仏」の「名号」を成就されて「阿弥陀如来」となられました
 この「法蔵菩薩」の願いとご苦労が、衆生済度として花開き実を結ぶときが、私たちの称えさせていただく「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)」です。「阿弥陀」と名づけられた「如来」の真実が、今、わが身の上に成就されているのです(仏願の生起本末)


 
また、「称名念仏」は、阿弥陀さまの「お呼び声」であり、私たちの「ご返事」であり、「ご恩報謝のつとめ」でもあります。
 なぜならば、
私たちの称えるお念仏の響きは、どこかで、誰かに、
「あなたを必ず救い、幸せにします」という真実のお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞いていただくご縁となるのですから・・・・・。




        



                          私たちへの伝言

「仏さまの言葉は、『まぁゆっくりしておいで、そのままでいいんだよ』と聞こえてくる。するとその人は、元気が出てきて、『よーし』と、さらに歩みをはじめるのでしょうね」(圓日成道師)

◇ 「いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に」(九条武子夫人)

◇ 「誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞〈親鸞〉、愛欲の広海に沈没し、名利〈名誉や利益〉の太山に迷惑して、定聚の数〈浄土に生まれて仏になる仲間の数〉に入ることを喜ばず、真証の証〈仏のさとり〉に近づくことを快しまざる〈うれしいとも思わない〉ことを、恥づべし傷むべし」(親鸞聖人)

◇ 「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと・・・・・」(親鸞聖人)

◇ 「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり」(親鸞聖人)

◇ 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(親鸞聖人)


◇ 「阿弥陀如来は衆生の仏性を見つけて信じた。阿弥陀如来は衆生の本心を見抜き、衆生を信じて本願を起した。信は仏にある。ただ一方的に仏を信ぜよというのでない。我々が仏を信じていようがいまいが、先ず仏は我等を無条件に信じ念じておられる。その証拠が南無阿弥陀仏である」 (曽我量深師)


「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ずわたしける」(親鸞聖人)

◇ 「阿弥陀さまが、私たちの声を借りて呼びかけようとされているのに、その邪魔をしては申し訳ないと思いませんか。 『南無阿弥陀仏』は、阿弥陀さまの一途なお呼び声です。 阿弥陀さまが、私たちに称えられる『南無阿弥陀仏』という声の姿形となられてまでして、私たちのもとへ救いに来てくださっているのですよ。昔、『皆さんの唇の動かないのが口惜しゅうございます』と貞信尼さまは言われたそうです。ひと声『南無阿弥陀仏』と申すと、『南無阿弥陀仏』と聞こえるではありませんか。呼ばれたりお呼びしたりの阿弥陀さまと私です」
  「阿弥陀さまは『南無阿弥陀仏』という声となり、手話となり、点字となり・・・・・、いろんな声の姿となって呼びかけてくださいます。うれしいとき、さみしいとき、悲しいとき・・・・・、私は阿弥陀さまとそっとお話をするのですよ。 ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・と」(藤原瑞枝さん)


◇ 「その自分の耳にも法を聴聞する手がかりがあります。その眼にも仏を見る手がかりがあります。その口にも仏を讃歎する可能性をもっております。身・口・意の三業、すべて煩悩で固められた罪業深重の器がそのまま仏の道に役立つ可能性をもっております。もちろんそれは仏のみ教えによって、仏の智慧に照らされて、自分の心が開かれるからであります」
  「称名念仏は初めからひとりでに出て来るものではありません。自由に言えるように言い慣らさねばならぬのです。念仏は称えるというよりも身につくものであります。念仏が身につくと自然に出て来るようになるのです。念仏は初めは稽古せねばならぬのです。(中略) ただ念仏を称えておることは容易なことのようでありますけれど、それが人間の口から出るということは容易なことではないのであります。(中略) そういう人が南無阿弥陀仏と称えるようになって称えるのです。その他に求めるものは何もないのです。信心が南無阿弥陀仏となって現れて来たのです。南無阿弥陀仏と称えるようになった時に、既に心の中に阿弥陀仏
〈阿弥陀如来〉のお徳がしみこんでいるのであります」(暁烏敏師)

◇ 「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」(法然上人)


◇ 「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(親鸞聖人)

◇ 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」(親鸞聖人)


◇ 「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり」(親鸞聖人)


この「南無阿弥陀仏 阿弥陀如来」は、2012年(平成24年)4月より掲載しています。お読みいただきありがとうございました。このご縁に感謝いたします。 称名




          【動画】 念仏(称名、聞名) 「阿弥陀如来と私たち 称えつつ呼ばれつつ」





《 称名、聞名の集い 》
◇日時 毎月15日 / 午後1時30分より
◇会場  純心寺 (千葉県成田市加良部4-4-13 成田国際高校のそば)

※お念仏を称えるご縁の場、阿弥陀さまのお呼び声を聞くご縁の場です。ご自由にお参りください。


                        【動画】 ある日の 《 称名、聞名の集い 》

                        【動画】 《 称名、聞名の集い 》(花まつり)







   


浄土真宗本願寺派  純心寺
〒286-0036  千葉県成田市加良部4-4-13  ℡:0476-28-4103

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