難波別院 南御堂 ~浄土真宗大谷派~

2月26日、難波別院に行ってまいりました。

難波別院は浄土真宗大谷派の別院で

別名『南御堂』とも呼ばれております。

 

 

難波別院の沿革

      ~リーフレットより~

 親鸞聖人によって開かれた浄土真宗は

中興の祖と仰がれる本願寺第8代

蓮如上人によって飛躍的な進展を遂げた。

 蓮如上人は信州再興の願いに立って

近畿北陸を中心に各地に教化し、1496年

(明応5)82歳の秋、摂州東成郡、生玉の

庄内の地に一宇の坊舎を建立され、これが

大坂(石山)本願寺に発展した。

 当時、この地は現在の大阪城のあたりから

法円坂にかけての地を尾坂または小坂と

称していた。上人がこれをはじめて大坂と

書かれたので、浪速の地一帯を大坂と総称

するようになり、1868年(明治元)から大阪と

改められた。

 大坂(石山)本願寺の寺内町はやがて一大城郭

を構えるようになったが、1570年(元亀元)

天下制覇をめざす織田信長の軍勢に取り囲まれ、

本願寺は11年にわたし抗戦したが、(石山合戦)、

幾多の門徒の命が奪われ、1580年(天正8)

和を講じて、鷺森、貝塚、天満の各地を経て、

京都堀川に寺基を移した。

 1596年(文禄5)本願寺第12代教如上人は

渡辺の地に大谷本願寺を建立し、1598年(慶長3)

ここ難波別院の地に移った。

東本願寺が1602年(慶長7)に徳川家康の寄進に

より京都に建立されるまで、難波別院は真宗大谷派

の本山であった。

 文禄5年大谷本願寺と銘のある大梵鐘はこの境内

にあり、その響きを今に伝えている。その後1714年

(正徳4)に建立された旧堂宇は、昭和20年戦火により

消失し、昭和36年5月に再建された。

 当院は御堂筋の名の由来になる寺院で市民から

南御堂と呼び親しまれ、真宗の教化と大阪の文化の

進展に寄与している。

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           ご本堂

 

ご本堂解説

        ~リーフレットより~

 鎌倉様式で鳳凰が羽をひろげたような

典雅壮麗な重層屋根の本堂は、昭和36年に

東京大学の内田祥三、松下清夫、太田博太郎

各博士の設計監理のもとに完成した。

 御堂筋から、山門の石柱をとおしてつねに

御本尊が拝めるように設計されている。

境内の総敷地面積は9832.15㎡。

  

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      ご本尊 阿弥陀如来像

 

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難波別院案内リーフレット

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    詳しくはこちらをご覧ください

   →  難波別院公式HP  ←

 

 

 (大)       


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