浄土真宗本願寺派津村別院、通称『北御堂』に
参拝させて頂きました。
ご本堂へは山門正面の長い階段を
重い荷物を一生懸命持ち上げながら
登らないといけないので大変でした。
でも、帰りにはエレベーターが
あることを知りました。(苦笑)
ご参考にご案内させていただきますと
本町駅からエレベーターで上るには
地下鉄御堂筋線「本町」下車
A階段の2番出口エレベーターに
のります。 ↓本町駅構内マップ参照
エレベーターで上がると写真の通り
地上に出ます。
上の自動ドアの入口を入りますと
中にエレベーターがありますので
それで境内まで上がれます。
1階エレベーター乗り場
2階エレベーター乗り場
境内からご本堂正面階段を上らず、
脇を奥に進むと入口があり、そこにあります
エレベーターに乗ると本堂まで階段を
使わずに行けます。
津村別院沿革
~リーフレットより~
親鸞聖人の「お念仏」のみ教えを弘めるため、
明応5年(1496)に、浄土真宗中興の祖、本願寺
第8代宗主蓮如上人によって、大坂の地に建立
された坊舎が石山本願寺の始まりです。
この坊舎のまわりに寺内町が形成され、大坂の
町は大いに発展していったそうです。ちなみに、
この「大坂」の地名があらわれる歴史上いちばん
古い文献は、蓮如上人の『御文章』4帖15通
「大坂建立の章」です。
その後、戦国時代の、元亀元年(1570)、織田
信長は、石山坊舎の地の明け渡しを要求し、本願寺
との間に11年間に及ぶ石山合戦が起こりました。
天正8年(1580)、信長との間の和睦ができ、
本願寺は紀州鷺森、貝塚、天満に寺基を移しました。
そして天正19年(1591)、第11代宗主顕如上人
によって寺基が京都に移されました。蓮如上人53歳の
寛正6年(1465)、比叡山の衆徒の襲撃によって、
京都東山にあった本願寺が破却された寛正の法難
以来、127年ぶりのことです。
しかし、大坂の門徒たちは、この地での「お念仏」の
灯を護るため、天満に近い「桜の岸」に坊舎を建立
しました。これが津村別院の始まりです。
この坊舎は、本願寺第12代宗主准如上人時代の
慶長2年(1597)、「津村郷」と呼ばれていた現在の
地に移り、津村御坊は「北御堂」と称されるようになり、
南御堂(真宗大谷派難波別院。つぶら別院から南へ
約500メートル)とならんで大坂の人々に親しまれて
きました。
篤信な門徒(近江出身の商人など)が、この南北
御堂(通称=御堂さん)の近くに集まり、大坂の商人の
中心「船場」の町を築きました。商人たちは、「ひときわ
大きな屋根を誇らしげにしている『御堂さん』の鐘の
音が聞こえるところで商売を・・・」を合い言葉に、商いに
精を出したといいます。
御堂は、昭和20年(1945)3月の大坂大空襲で
消失しましたが、昭和39年(1964)に多くの方の
お蔭により、近代的大殿堂として再建され、現在に
至っています。
なお、南北両御堂を結ぶ道は、大正7年(1918)の
市街地大整備にあたり、当時の大阪市の関市長より、
「御堂筋」と命名され、今日の商都大阪における中心と
なってます。
山門
境内よりご本堂を望む
↑クリックすると拡大されます
親鸞聖人像
蓮如上人像
↑パノラマ合成加工 クリックすると拡大されます
御本尊 阿弥陀如来像
宗祖 親鸞聖人
第23代勝如上人
聖徳太子 七高僧
第11代顕如上人 第8代蓮如上人
リーフレット①
リーフレット②
リーフレット③
当日は総永代経法要として重誓偈(律曲)のお勤め
がございました。
※静止画で音声のみとなります。雑音有ります
音楽ホールのような北御堂だけあって
とても印象的な重誓偈でございました。
次回訪れる機会がありましたら、また
法要に合せて御参拝させていただきたいと
思いました。