人生を振り返って後悔することはありませんか
ところで、人生を振り返って後悔することはありませんか。罪の意識に苦しむことはありませんか。たまらなくさみしいことはありませんか・・・・・。
誰でも、少なからず後悔という重荷を背負っています。取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。
反省は懺悔の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。
「申しわけありません」と思う気づきは、私たちがこの世で行なった善い(善)こと善からぬ(悪)ことのすべてを知り尽くされたうえで、「どんなあなたであろうと、決して見捨てはしません(摂取不捨)」という、阿弥陀さまのお心に触れる縁となることでもあります。
阿弥陀さまは、私と一緒に苦しんでくださり、悲しんでくださっています。そして、いつも私たちの心の底を静かに照らされています。
その深い思いに照らされて、自分の愚かさに気づくときに芽生えるのが、心の底から湧き起こる懺悔の気持ちです。
何度も何度も自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも、「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気をだそう。何か今からでも私にできることはないだろうか」、「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて素直に生きてみよう」と、毎日新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになれるかもしれません。
なぜならば、ありのままの私をまるごと受け入れてくださる阿弥陀さまのお心があるからです。「これではいけない」、「こんなはずではない」と思いながら何度も何度も失敗を繰り返す私を見捨てないで、「どこまでもあなたを支えます」と仰せられる阿弥陀さまのお気持ちが、私の生きる力となってくださるからです。
私たちは、過ぎ去った過去を変えることも、明日の私に触れることもできません。しかし、今日の私の生き方、いのちのありようは見つめることができます。
私たちは、生きていることをあたりまえのように思っていますが、あらゆるものは縁により時々刻々と生滅変化(諸行無常)していますから、予期せぬ病気や事故などによって、今日が人生最後の日となるかもしれないのです。「死」を思うとき、「生きている」ことへの気持ちも違ってきます。
だからこそ、本当にしたいこと、しておかなければならないこと、今日一日の私のいのちにとって何が大切で、何が不必要なのか、しっかりと見つめて整理しなければいけません。
もし、今日が人生の最後の日だとしたら、残された時間があとわずかだとしたら、私は何を思うでしょう。何をするでしょう。限られた時間の中でかけがえのないものに、本当に大切なものに気づいたら、勇気をもって不要なものを片付けることも大切なのではないでしょうか。
そして、今日一日のいのちの尊さに気づくとき、「あなたをどうしても助けたい」と誓われた阿弥陀さまの懐に包まれて、生死を越えて生かされているいのちも見えてきます。私をこの世に誕生させ、存在させた大いなるいのちの故郷へと続く、永遠の時間と空間(無量寿)の光に照らされた道も見えてきます。
また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。
誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。
お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界(娑婆、忍土)です。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら・・・・・。誰にも言えなかった私の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している私がいたら・・・・・(転迷開悟)、それは尊いことです。
阿弥陀さまが本願を起こされたのは、どうしても支え、救わずにはいられない衆生がここにいるからです。
お釈迦さまのお心も、阿弥陀さまのお心も、すべてのいのちを救い幸せにするという大慈悲のお心です。すべてのいのちを救うとは、この私も絶対に救われるということなのです。
阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖くてうつむく私をそっと抱きあたため、淡々と凛々と悠々と生きられるようにやすらぎを、喜びを与えてくださる(抜苦与楽)のです。何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。これだけは忘れてはいけません。私たちは、私を決して見捨てられない、その阿弥陀さまの大慈悲のお心の中に、すでにいるのです。
私の目に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。