お釈迦さまと阿弥陀さま
【はじめに】
この「お釈迦さま物語」は、最初から順番に ( 【一】、【二】、【三】・・・・・と ) 読んでいただいても、見出しを見て関心のある項目から ( 【十】、【十二】、【五】、【七】・・・・・と ) 自由に読み進めていただいても、どちらでも結構です。
【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い
【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生
【三】お釈迦さまのさとり
【四】苦しみの原因
【五】仏教とは
【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)
【七】阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは
【八】南無阿弥陀仏とは
【九】真実に触れる
【十】人生という旅
【十一】人生を振り返って後悔することはありませんか
【十二】お釈迦さまの最期、入涅槃
【十三】お釈迦さまの思い
【十四】「歎異抄」第一条、第三条、第九条、「御文章」聖人一流章
【十五】《 私たちへの伝言 》
【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い
「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」、「お釈迦さまの教えと阿弥陀さまの救いは同じですか」、「南無阿弥陀仏とは・・・・・」という問いを受けましたので、できるだけわかりやすくお答えします。
【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生
お釈迦さま(釈尊、釈迦如来、釈迦牟尼仏)も、さとりを開かれるまでは人生に苦悩を抱く一人の人間でした。
お釈迦さまは紀元前463年頃、現ネパール南部のタライ平原にあるルンビニーという小さな村で、カピラヴァストゥ(カピラ城)に都を置く釈迦族の王子として誕生され、ゴータマ・シッダールタ(瞿曇悉達多)と名づけられました。父親の名はシュドーダナ(浄飯王)で、母親はマーヤ(摩耶夫人)と申します。
母親とは、生後わずか7日にして死別されます。16才の頃にヤショーダラ(耶輸陀羅)と結婚され、ラーフラ(羅睺羅)という男の子が生まれます。
29才のとき、「思い通りにならないこの世を、どう生きればよいのか」、「老い、病、死・・・・・。もろもろの苦悩は避けられないのか・・・・・」と、人生の根源的な苦しみを解決するために出家を決意されます。
王子の身分を捨て、妻と子を城に残して修行の道に入られます。それから6年の間、壮絶な苦行をされます。
しかし、この心身を極度に消耗するのみの激しい苦行は、苦悩の根本的な解決とはならないことに気がつかれます。
35才になられたお釈迦さまは、苦行で痩せ細った身体をネーランジャー川(尼連禅河)でゆっくりと洗われます。川からあがると、村の娘スジャータの捧げた乳がゆを心静かにいただかれます。
いくらか体力を回復されると、近隣の樹林、後にブッダガヤ(仏陀伽邪)と呼ばれる森閑とした地にゆっくりと向かわれ、大きな菩提樹の根元に静かに座られます。すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願い、不退転の覚悟で瞑想に入られます。
そして、ついにさとり(覚り、悟り)を開き、仏さま(仏陀、覚者、真実に目覚めた人、真理を悟った人)となられました(成道)。
【三】お釈迦さまのさとり
お釈迦さまは、「なぜ苦しむのだろう」、「苦しみは、どうすればなくすことができるのだろう」と、「苦」の正体を見つめられたのです。そして、ついに真実を見つけられました。
お釈迦さまが気づかれたのは、あらゆる物事の一つひとつが無数の条件が加わることにより形となって現れ、すべてが原因と縁(因縁)によって成り立っている、存在しているという因果の道理でした。
あらゆる物事は、刻々と織りなしていく因縁によって常にとどまることなく移り変わります(諸行無常)。
因縁によって生じ変化するものには、固定的な永遠不滅の実体などというものはないのです(諸法無我)。
めぐり合わせによるその存在は、諸条件によって生滅するものであり、自然にそのときそうなっているだけの姿形・事象で、一切の執着を離れた世界です(空)。
従って、有無にこだわらず執着から離れて、煩悩の炎が吹き消された状態でいれば、安らかなさとりの境地にいられるのです(涅槃寂静)。
お釈迦さまは、「これがあるから、それがあるのです。もし、これがなければ、それはないのです。言い換えれば、これが生じたので、それが生じることになったのです。もし、これが生じていなければ、当然それも生じていないのです」と、物事は縁によりすべてがかかわりあっていて、一つとして単独で存在するものはないこともさとられました(縁起)。
あらゆる物事が、縁によって生まれ、縁によって移り変わり、縁によって滅するのです。そして、また縁によって生まれ・・・・・。一切の自然の営みそのものが、すべて因(直接原因)と縁(間接原因)によって存在しているのです(因縁生起)。
【四】苦しみの原因
ところが私たちは、知らず知らずのうちに自分(自我)にとらわれます(我執)。
あらゆるものが変わりゆくものと頭ではわかっていても、無意識に自分は常住の存在で、自己の内部に永遠に変わらない特別な実体があると思っていますから、因縁によってあらわれ起こる「あるがまま、ありのままの真実(自然=じねん)」が、因縁のままに生かされている「いのちの真実」がわかりません。
例えば、自分の生も死もどちらも自然なことなのに、生きていることは受け入れられるが死にゆくことは受け入れることができないという自分が「苦」を生みます。自分の思い通りにならないとき、苦しみの火種である煩悩の炎が燃え上がります(一切皆苦)。
私たちを苦しめるのは、心身を煩わし悩ます煩悩です。特に貪欲、瞋恚、愚痴を三毒の煩悩と表現されます。貪欲は、尽きることがない欲望であり、執着です。瞋恚は、怒ることであり、憎むことです。愚痴は、物事の道理がわからず、的確な判断をくだせないで迷うことです。
この煩悩により、自分の意思を超えて欲が、怒りが、憎しみが燃え盛ってきます。その上、慢心するかと思えば、不安に押し潰されそうになったり・・・・・。限られた人生の中で、どれだけ人の心を傷つけたり、逆に傷つけられたりするのでしょうか。一つの言葉、一つの物事に一喜一憂する私たちです。
お釈迦さまは、「迷いの人生は苦しみです(苦諦)。その苦しみの原因は、物事に執着する煩悩にあります(集諦)。従って、煩悩を断ち切れば苦しみはなくなります(滅諦)。煩悩をなくすためには、正しい道を求めて歩むことが大切です(道諦)」と仰せられました。
続けて、「その道とは、先ず、物事の道理を正しく見ることです(正見)。それから、物事を正しく考え判断しなさい(正思惟)。そして、嘘のない、正しい言葉を語りましょう(正語)。身の行ないも正しくしましょう(正業)。そして、健全な、正しい生活をしましょう(正命)。そのためには、正しい努力をしなければなりません(正精進)。中でも、真実を求める思いを大切にしましょう(正念)。精神を安定させ、迷いが起こらない清浄な境地でいられるように努めましょう(正定)」と、四つの道理と八つの実践方法を示されました(四諦八正道)。
【五】仏教とは
仏教は、真実に気づき、真実に救われて生きる教えです。
この教えは、お釈迦さまの教えであるとともに、正しい道理を知らない私たちが真実に目覚めて仏(真理を悟った人)になる教えですから、「私もさとりの世界を知りたい。煩悩をなくして、仏さまのような心で生きたい(菩提心)」という願いをもって求めなければ理解が難しい教えです。
そして、様々に異なった境遇のいのちが一緒に生きているという自覚をもって、自分のいのちも他のいのちもともに生かしながら(自利利他)、この世が安らかで浄らかな世界になるように努める教えです(菩薩道)。
すべての生きとし生けるものが仏としての本性を有しているのですから(一切衆生悉有仏性)、恵まれたいのちの尊さに気づき、仏さまに救われた日々を過ごさなければなりません。
しかし、物事を正しく見よう、語ろう、行おうとしても、思わなくてもよいことを思い、言わなくてもよいことを言い、やらなくてもよいことを繰り返している私たちです。欲しいものは限りがないし、不都合なことがあれば腹が立つし・・・・・。
それでは、次から次に沸き起こる煩悩に振り回されて、正しい道を歩むことが難しい人々は一体どのようにしたらよいのでしょうか。
そこでお釈迦さまは、煩悩をかかえもって生きる人々をさとりの世界へ導くための手だてを示されました。
いよいよ、お釈迦さまがこの世に誕生され、さとりを開かれた真の目的を語られるときがきたのです(仏教の真実)。
それは、お釈迦さまがラージャグリハ(王舎城)の霊鷲山に住まわれていたときのことです。
「私がこの世に生まれてきた目的は、すべてのいのちを仏にしたいという願いを起こし、その願いを成就された仏さまの存在を伝えるためです。その仏さまが法蔵という名の菩薩であられたとき・・・・・」と、語りはじめられました。
【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)
法蔵菩薩は、衆生を見つめられました。そして、苦悩するものを救い取って仏にする願いを起こされました(本願)。どうすれば助けることができるだろうかと考え続けられました(五劫思惟之摂受)。
そして、私たちのすべてを知り尽くされたうえで、「そのままのあなたを助けます」と一切の条件をつけないで救い取ることを誓われ(誓願)、言葉では言い表せない、それはそれはたいへんなご苦労を重ねられました。
その結果、法蔵菩薩は衆生救済の願いを成就されて阿弥陀如来(阿弥陀さま)となられ、安らかで浄らかなお浄土(極楽浄土)を設けるにいたられました。
阿弥陀さまは、「私の声が聞こえますか。私はあなたを必ず救います」と約束してくださいました。そして、自らの名をもって呼びかけられました(名号)。「南無阿弥陀仏」と。
ついに、法蔵菩薩の大いなる願いであった衆生救済活動が始まったのです。
縁によって生まれ、縁によって生き、そして縁によって生涯を終えるのが自然な人生です。しかしながら、生きることに苦しんでいる人がいます。死を受け入れられないで苦しんでいる人がいます。
この世に生まれた本当の幸せというものに遇えなくて、どこに救いの価値がありましょう。救いを求めるままで終わる人生は悲しいです。私たちには、現在においてこそ救いが必要なのです。
お釈迦さまは、苦しみ、悩み、悲しみの原因を明らかにされました。
そして、「衆生を、必ず仏にします」と誓われて阿弥陀さまとなられた法蔵菩薩のお心、真実の願い(本願)を知らされました(仏説無量寿経)。 私たちがすでに、量り知れない光といのちの中に生かされていることを教えてくださいました。
そのときから、「あなたを、必ず幸せにします」と仰せられる阿弥陀さまと、自分の力で苦悩を断ち切ろうとしても、結局迷いから離れることができないものが、「絶対に見捨てません(摂取不捨)」というお呼び声によって固い絆で結ばれました。
お釈迦さまは、