茨城県笠間市稲田469にあります浄土真宗単立寺院
別格本山(べっかくほんざん)稲田山(いなださん)
西念寺(さいねんじ)さんにお参りに行ってきました。
寺伝によりますと、
親鸞聖人は、常陸の国笠間郡稲田郷の領主である
稲田九郎頼重の招きでこの地に草庵を開いたとされ
西念寺山門
西念寺ご本堂
御葉つき銀杏
案内板より
『親鸞聖人御草庵の庭前に銀杏の実を葉に包みて
蒔き給いしところ、葉先に実る不思議ありと、
東京大学農学部向坂教授参詣あり、隅々実物を
見て植物学上世界的な珍種天然記念物お葉つき
銀杏であることが確証された・・・後略』
御杖杉
案内板より
『建歴二年の春、親鸞聖人越後の国府より
この稲田に御来入あり、南方に聳(そび)える
山々の景色を眺めさせられ、救世菩薩(くせ
ぼさつ)の夢告を受けたるはこの地なり、
草庵を結びて衆生化益(けやく)の宿願を
達せばやと御杖杉を深くさし給いしところ
不思議にも根芽を生じ大木となれり
明治四年、本堂焼失のとき類焼したるは
惜しむべき所なり・・・後略』
(左)御杖杉 (右) 神原の井
神原(かんばら)の井(いど)
案内板より
『鹿島大明神白髪の老翁となりて親鸞聖人の
法筵(ほうえん)につらなり、門法随喜のあまり
御弟子となり、法名を釈信海と賜う。
老翁喜びのあまり鹿島七つ井の一つを献ぜば
やと大地を叩(たた)き給いしところ、忽然(こつ
ぜん)と清水湧き出でたり。
この水六月十四日減ずることあるも案じ給うこと
勿(なか)れと、今も猶(なお)旧暦六月十四日に
此の不思議あり、水戸光圀公いわれを聞き喜び
のあまり、御影石の井筒を寄進せり・・・御略』
西念寺お内陣
西念寺須弥壇
西念寺御本尊阿弥陀如来像
祖師前(そしぜん) 親鸞聖人御影像
御代前(ごだいぜん) 恵信尼公御影像
ご本堂より山門を望む
境内からご本堂を望む
案内板より
『親鸞聖人が稲田より御帰洛されてからも尚南都
北嶺の山徒の迫害があり、ややもすれば腕力を
以て事を決せんとし、嘉禄安貞の頃、法然上人の
東山吉水の墳墓を暴かんとして門弟の頼綱入道
蓮生らを苦しめたのである。
聖人ご入滅の折、稲田禅房第二世の法興房教念
は上洛して、すでに京都在住の覚信尼公(聖人の
末娘)に恵信尼公(聖人のご内室)の深い思し召し
(東山の大谷(地名)の墓を心配しておられる事)
をお伝えしたので、覚信尼公は聖人のお頂骨を
ひそかに教念に分与された。
かくして安全なる稲田へ、ご分骨は教念により
供奉され、無事帰着してより恵信尼公を始め道俗
にご披露申し上げたのである。ご草庵に於いて別
中陰の法筵を営み、結城、笠間の諸大名その他
お弟子を始め、ご帰依の道俗参集して追慕の情に
咽び報恩の誠を盡(つく)したのである。
参集の道俗の中には分骨の希望もあったが、
真っ性に至って散逸する事を憂いお弟子方相謀り
護持掟書を作り、ご草庵裏山の勝地に、真宗最古
の御廟としてお頂骨を奉安した。これによって稲田
のご草庵が関東教団の中心地となったのである。
・・・後略』
御頂骨堂
御頂骨堂
太子堂
案内板より
『天正年間、笠間城主時廣の建立なり
天正十年(1582)三月二十七日、時廣
は磯部にて水谷蟠竜(みずのやばんりゅう)と
戦いて敗走し西念寺に入り聖徳太子の尊前にて
自害を計る。時に当山十五世の了与これを止め
単騎長槍を執りて蟠竜の陣に向い、美事に和議
を結べり。
時廣暑く感謝し恰(あたか)も太子の仏敵守屋を
誅せらるるが如しとて、堂宇を建て制札を掲げ
十五石の仏供田(ぶっくでん)を寄進す。
なお、太子の尊像は宗祖の御自作と伝えられ
草庵にては御本尊の右に太子、左には法然上人
を安置して崇敬されしと言う』
太子堂