浄土に生まれることを             
       喜べないものこそ
        
                        「歎異抄第九条」
     

 

「お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)」〈第十四章〉
【純心寺ホームページ法話http://www.junshinji.org/osyakasamamonogatari.html】より抜粋
 

純心寺住職 曽我弘章


 

  (5)〈歎異抄第九条〉 「私は口にお念仏(南無阿弥陀仏)を申しておりますものの、心に踊りあがるような喜びが湧き起こってきません。
 また、少しでもはやくお浄土へ行きたいと思う心もこりません。
 こんな浅ましいことで大丈夫でしょうか。これはいったいどう思ったらよいのでしょうか」とお尋ねしたときに、「親鸞もそれと同じ悩みをもっていたのですが、唯円房、あなたも同じ思いでしたか。


 よくよく考えてみますと、お浄土に往生するということは天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことなのに、それが私たちには喜べないのです。
 しかし、それでこそいよいよお浄土に往生させていただくことに間違いがないと存じ上げるのです。喜ばねばならないはずの心をおさえて喜ばせないのは、煩悩のしわざです。
 阿弥陀さまは、かねてよりそのことを見抜かれていて、私たちを煩悩具足の凡夫と仰せになられているのですから、阿弥陀さまの本願はこのように浅ましい私たちのためのものだったと気づかされて、ますます頼もしく思われます。

 また、急いでお浄土に行きたいとあこがれる心も起こらないで、少し病気でもすると死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩のしわざです。
 久遠
の昔より迷い続けてきたこの世という苦悩のふる里には、捨てがたい愛着があるのに対して、まだ生まれたことがない安らかで浄らかなお浄土には、少しも恋しい思いが起こらないのです。
 それはすべて煩悩のしわざです。
 しかし、この世にどれほど執着して名残しんでいても、この世の縁がつきて力なく生涯を終えるときには、必ずお浄土へ往生させていただくのです。阿弥陀さまは、急いでお浄土へ行きたいという心の起こらないものを、特にあわれに思ってくださるのです。
 それだからこそ、大慈大悲の本願は、私のようなもののために起こしてくださったのであると、ますます頼りになって安心であり、お浄土で仏にしていただくことは間違いがないのです。

 もし、心に踊りあがるような喜びが湧き起こり、また少しでもはやくお浄土へ行きたいと思うようでしたら、私には煩悩がないのだろうかと、かえって疑念を抱くことでしょう」と、親鸞さまは仰せられたのです。





   


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