常瑞寺 浄土真本願寺派


 

福島県白河市大工町84にあります

平荘山(へいしょうざん)善永院(ぜんえいいん)

大網奥之坊(おおあみおくのぼう)

常瑞寺(じょうずいじ)さんに

お参りに行ってきました。

常瑞寺さんは第二代宗主(しゅうしゅ)

如信上人ゆかりのお寺です。

  

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          正面山門

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          常瑞寺ご本堂

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        常瑞寺ご本堂内

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          常瑞寺お内陣

 

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     常瑞寺ご本尊阿弥陀如来像

 

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          祖師前(そしぜん)

 

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          御代前(ごだいぜん)

 

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           太子堂

 

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           鐘楼閣

 

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          常瑞寺境内


この日、宿に着いてから本願寺出版社発行の

『親鸞聖人関東ご旧跡ガイドブック』の常瑞寺さん

のページに紹介されていました如信上人ご墓所が

なぜか気になりました。

そこで翌日、急遽如信上人ご墓所の大網本廟に

お参りすることにいたしました。

そしてその後、如信上人ゆかりの地をお参り

することに変更し、旅路の近くにございました

如信上人御終焉の地の法龍寺さんもお参り

することになりました。

何気ない常瑞寺さんへのお参りがご縁となって

如信上人ゆかりの地をお参りする旅になりました。

まるで如信上人に導かれたような思いもする、

思い出に残るありがたい旅への始まりでした。

        合掌

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     浄瑞寺リーフレット


(〜リーフレット内容〜)

浄土真宗第二世如信上人は、嘉禎三年(1237年)

親鸞聖人の御子慈信房善鸞大徳の長男として生誕

されました。幼少の頃から祖父親鸞聖人の慈愛の中

に修学なされ、聖人のお心を正しく領解なされたお方

です。

弘長二年(1262年)霜月(陰暦11月)28日、聖人

御遷化の枕辺に如信上人のお姿がございません。

この年の初冬下旬、すでに聖人は、御自作の御影像

を付属され、東国門弟の教化を託されていたのです。

師と仰ぎ祖父と慕う聖人と二度と生きてまみえること

のない別れでした。

聖人御遷化後の如信上人は、報恩講を親修なされる

ため、毎年御上洛なされました。また、東国にあっては、

お形見の御真影様に御遺骨を彩色(灰骨の御影)し、

生ける聖人にお給仕申し上げるようにお仕えなされ、

ひたすら祖意に随順されたのです。

如信上人が奥州白河大網の奥之坊を生涯の庵と

されたのは、建治元年(1275年『如信上人御かな

書名号縁起』より)とも、文永六年(1269年『寺社

台帳』より)とも記されています。

この庵は、奥州信夫の郷士佐藤荘司元治の室が

文治年間に建立したものです。我が子継信中信を

慕って上洛しようと当地にさしかかったとき、兄弟が

西国にて討ち死にしたことを知り、その菩提を弔う

ため一宇の坊舎を結び佐藤家伝来の阿弥陀仏像

を安置し読誦念仏したのが始まりと伝えられてい

ます。尼の没後は、西念寺と号する法相宗の寺院

となっていて、これを人は「大網の御堂」または

「大海堂」と呼んでいました。

法相宗の僧淵厳が住していたときのこと、淵厳は、

白河領主結城公の勧めにより如信上人に謁し、

生死出離の要道を問答して他力易行の念仏門に

帰依、寺領を上人に献じて法名を乗善とたまわり

門弟となった。ここに法相宗西念寺は大網奥之坊

と改名されたのです。

「如信上人は奥州大網東山というところに居をしめ

給いけるに勧化に随う人国郡にみち徳行を仰ぐ

やから遠近にあまねし」(敬重絵詞より)奥州大網

東山は、現在地名が泉崎村大字北平山字古寺と

変わっています。近年の調査により、明治九年

北平山村字大網が北平山字古寺に改称されてこと、

さらに如信沢という地名が近くにあることなどが

知られました。

正安二年(1300年)正月四日、如信上人は京都

にて報恩講親修され、帰路常陸国上金沢にある

お弟子乗善房の庵(願入寺という、現在は寺名が

法龍寺と変更されている)に立ち寄られかの地で

御遷化なされました。

本願寺第三世覚如上人はこれを知り、三回忌

までの法要を京都に於いてお勤めになり、延慶

五年(正和元年・1312年)上人終焉の地、

上金沢に至って、仏事を営み、さらに大網の本坊

に詣でて十三回忌の法要を親修なされたのです。

上人の遺骨は正和四年遺弟によって金沢からの

本坊の宗祖灰骨の御影を安置する大網奥之坊に

改葬され十七回忌の法要が営まれました。

大網の本寺「奥之坊」が開基されておよそ350年

寛永4年(1627年)に本坊は如信上人の墓所

(当山飛地境内)をのこし、白河城主丹波長重の

命により現在地に移されました。旧地にはその後

まもなく城主本多能登守によって大網堂が建立

(近年関和久遺跡発掘時に堂跡も発掘、江戸時代

初期の礎石を確認、同時に中世火葬墓・灯明皿等

も出土)されたのです。

大網奥之坊が現在の寺号をもったのは白河城下

移転後まもなくのことで、「白河風土記」に「此弥陀

の像火焔の中より免れ出で霊場不思議を顕せし

云々」とあり、以後平荘山善永院大網常瑞教寺

(略して大網常瑞寺)と称するようになりました。

如信上人は京都大谷本廟を淑母(覚信尼)の孫

覚如へ、灰骨の御影を安置する大網本廟を御子

浄如に相続とお決めになられました。

ある年、従兄弟覚恵法師は、報恩講上洛の上人

へ大谷本廟御在住の願いを申し上げる。すると

上人は、古歌を詠まれて御返事とされ歩みを

大網の本坊に向けられたという。

  

  なでしこの花にへだては なけれども

    おくれて咲くは なおあわれなり

 

宗祖灰骨の御影と如信上人御本廟をお守りして

七百有余年、常に上人の御心を帯し、真宗法血脈

を次第相承してきたのが大網本寺奥之坊常瑞寺

であります。





 (大)       




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