お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)

仏教 浄土真宗







南無阿弥陀仏


お釈迦さまと阿弥陀さま

純心寺住職  曾我 弘章



【はじめに】
 この「お釈迦さま物語」は、最初から順番に ( 【一】、【二】、【三】・・・・・と ) 読んでいただいても、見出しを見て関心のある項目から ( 【十】、【十二】、【五】、【七】・・・・・と ) 自由に読み進めていただいても、どちらでも結構です。

 

目次
               

 【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い
 【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生
 【三】お釈迦さまのさとり
 【四】苦しみの原因
 【五】仏教とは
 【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)
 【七】阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは
 【八】南無阿弥陀仏とは
 【九】真実に触れる
 【十】人生という旅
 【十一】人生を振り返って後悔することはありませんか
 【十二】お釈迦さまの最期、入涅槃
 【十三】お釈迦さまの思い
 【十四】「歎異抄」第一条、第三条、第九条、「御文章」聖人一流章

 【十五】《 私たちへの伝言 》 



【一】「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」という問い


 「お釈迦さまと阿弥陀さまはどのような関係ですか」、「お釈迦さまの教えと阿弥陀さまの救いは同じですか」、「南無阿弥陀仏とは・・・・・」という問いを受けましたので、できるだけわかりやすくお答えします。

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【二】お釈迦さま(釈迦如来)の誕生

 お釈迦さま
(釈尊、釈迦如来、釈迦牟尼仏)も、さとりを開かれるまでは人生に苦悩を抱く一人の人間でした。

 お釈迦さまは紀元前463年頃、現ネパール南部のタライ平原にあるルンビニーという小さな村で、カピラヴァストゥ
(カピラ城)に都を置く釈迦族の王子として誕生され、ゴータマ・シッダールタ瞿曇悉達多と名づけられました。父親の名はシュドーダナ浄飯王で、母親はマーヤ摩耶夫人と申します。
 母親とは、生後わずか7日にして死別されます。16才の頃にヤショーダラ(耶輸陀羅)と結婚され、ラーフラ(羅睺羅)という男の子が生まれます。
 29才のとき、
思い通りにならないこの世を、どう生きればよいのか」、「老い、病、死・・・・・。もろもろの苦悩は避けられないのか・・・・・」と、人生の根源的な苦しみを解決するために出家を決意されます。
 王子の身分を捨て、妻と子を城に残して修行の道に入られます。それから6年の間、壮絶な苦行をされます。
 しかし、この心身を極度に消耗するのみの激しい苦行は、苦悩の根本的な解決とはならないことに気がつかれます。

 35才になられたお釈迦さまは、苦行で痩せ細った身体をネーランジャー川
尼連禅河でゆっくりと洗われます。川からあがると、村の娘スジャータの捧げた乳がゆを心静かにいただかれます。
 いくらか体力を回復されると、近隣の樹林、後にブッダガヤ(仏陀伽邪)と呼ばれる森閑とした地にゆっくりと向かわれ、大きな菩提樹の根元に静かに座られます。すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願い、不退転の覚悟で瞑想に入られます。


 そして、ついにさとりり、悟り)を開き、仏さま仏陀、覚者、真実に目覚めた人、真理を悟った人)となられました成道

            
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【三】お釈迦さまのさとり

 お釈迦さまは、「なぜ苦しむのだろう」、「苦しみは、どうすればなくすことができるのだろう」と、「苦」の正体を見つめられたのです。そして、ついに真実を見つけられました。

 お釈迦さまが気づかれたのは、あらゆる物事の一つひとつが無数の条件が加わることにより形となって現れ、すべてが原因と縁
因縁によって成り立っている、存在しているという因果の道理でした。

 あらゆる物事は、刻々と織りなしていく因縁によって常にとどまることなく移り変わります(諸行無常)
 因縁によって生じ変化するものには、固定的な永遠不滅の実体などというものはないのです(諸法無我)
 めぐり合わせによるその存
在は、諸条件によって生滅するものであり、自然にそのときそうなっているだけの姿形・事象で、一切の執着を離れた世界です
 従って、有無にこだわらず執着から離れて、煩悩の炎が吹き消された状態でいれば、安らかなさとりの境地にいられるのです
(涅槃寂静)

 お釈迦さまは、「これがあるから、それがあるのです。もし、これがなければ、それはないのです。言い換えれば、これが生じたので、それが生じることになったのです。もし、これが生じていなければ、当然それも生じていないのです」と、物事は縁によりすべてがかかわりあっていて、一つとして単独で存在するものはないこともさとられました
縁起
 あらゆる物事が、縁によって生まれ、縁によって移り変わり、縁によって滅するのです。そして、また縁によって生まれ・・・・・。一切の自然の営みそのものが、すべて因
(直接原因)と縁(間接原因)によって存在しているのです因縁生起

            
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【四】苦しみの原因

 ところが私たちは、知らず知らずのうちに自分(自我)にとらわれます(我執)
 あらゆるものが変わりゆくものと頭ではわかっていても、無意識に自分は常住の存在で、自己の内部に永遠に変わらない特別な実体があると思っていますから、因縁によってあらわれ起こる「あるがまま、ありのままの真実
(自然=じねん)」が、因縁のままに生かされている「いのちの真実」がわかりません。
 例えば、自分の生も死もどちらも自然なことなのに、生きていることは受け入れられるが死にゆくことは受け入れることができないという自分が「苦」を生みます。自分の思い通りにならないとき、苦しみの火種である煩悩の炎が燃え上がります(一切皆苦)


 私たちを苦しめるのは、心身を煩わし悩ま
煩悩す。特に貪欲瞋恚愚痴を三毒の煩悩と表現されます。貪欲は、尽きることがない欲望であり、執着です。瞋恚は、怒ることであり、憎むことです。愚痴は、物事の道理がわからず、的確な判断をくだせないで迷うことです。
 この煩悩により、自分の意思を超えて欲が、怒りが、憎しみが燃え盛ってきます。その上、慢心するかと思えば、不安に押し潰されそうになったり・・・・・。限られた人生の中で、どれだけ人の心を傷つけたり、逆に傷つけられたりするのでしょうか。一つの言葉、一つの物事に一喜一憂する私たちです。

 お釈迦さまは、「迷いの人生は苦しみです(苦諦)その苦しみの原因は、物事に執着する煩悩にあります
(集諦)従って、煩悩を断ち切れば苦しみはなくなります(滅諦)。煩悩をなくすためには、正しい道を求めて歩むことが大切です(道諦)」と仰せられました。
 続けて、「その道とは、先ず、物事の道理を正しく見る
ことです(正見)。それから、物事を正しく考え判断しなさい(正思惟)。そして、嘘のない、正しい言葉を語りましょう(正語)。身の行ないも正しくしましょう(正業)。そして、健全な、正しい生活をしましょう(正命)。そのためには、正しい努力をしなければなりません(正精進)。中でも、真実を求める思いを大切にしましょう(正念)。精神を安定させ、迷いが起こらない清浄な境地でいられるように努めましょう(正定)」と、四つの道理と八つの実践方法を示されました四諦八正道

            
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【五】仏教とは

 仏教は、真実に気づき、真実に救われて生きる教えです。

 この教えは、お釈迦さまの教えであるとともに、正しい道理を知らない私たちが真実に目覚めて仏真理を悟った人になる教えですから、「私もさとりの世界を知りたい。煩悩をなくして、仏さまのような心で生きたい
菩提心」という願いをもって求めなければ理解が難しい教えです。

 そして、様々に異なった境遇のいのちが一緒に生きているという自覚をもって、自分のいのちも他のいのちもともに生かしながら
自利利他この世が安らかで浄らかな世界になるように努める教えです菩薩道
 すべての生きとし生けるものが仏としての本性を有しているのですから
(一切衆生悉有仏性)、恵まれたいのちの尊さに気づき、仏さまに救われた日々を過ごさなければなりません。

 しかし、物事を正しく見よう、語ろう、行おうとしても、思わなくてもよいことを思い、言わなくてもよいことを言い、やらなくてもよいことを繰り返している私たちです。欲しいものは限りがないし、不都合なことがあれば腹が立つし・・・・・。
 それでは、次から次に沸き起こる煩悩に振り回されて、正しい道を歩むことが難しい人々は一体どのようにしたらよいのでしょうか。

 
そこでお釈迦さまは、煩悩をかかえもって生きる人々をさとりの世界へ導くための手だてを示されました。
 いよいよ、お釈迦さまがこの世に誕生され、さとりを開かれた真の目的を語られるときがきたのです
(仏教の真実)

 それは、お釈迦さまがラージャグリハ王舎城霊鷲山に住まわれていたときのことです。
 「私がこの世に生まれてきた目的は、すべてのいのちを仏にしたいという願いを起こし、その願いを成就された仏さまの存在を伝えるためです。その仏さまが法蔵という名の菩薩であられたとき・・・・・」と、語りはじめられました。

            
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【六】仏願の生起本末、法蔵菩薩の願い(本願)

 法蔵菩薩は、衆生を見つめられました。そして、苦悩するものを救い取って仏にする願いを起こされました
(本願)。どうすれば助けることができるだろうかと考え続けられました(五劫思惟之摂受)
 そして、私たちのすべてを知り尽くされたうえで、「そのままのあなたを助けます」と一切の条件をつけないで救い取ることを誓われ
誓願、言葉では言い表せない、それはそれはたいへんなご苦労を重ねられました。
 その結果、法蔵菩薩は衆生救済の願いを成就されて阿弥陀如来
(阿弥陀さま)となられ、安らかで浄らかなお浄土(極楽浄土)を設けるにいたられました。

 阿弥陀さまは、「私の声が聞こえますか。私はあなたを必ず救います」と約束してくださいました。そして、自らの名をもって呼びかけられました
(名号)。「南無阿弥陀仏」と。
 ついに、法蔵菩薩の大いなる願いであった衆生救済活動が始まったのです。

 縁によって生まれ、縁によって生き、そして縁によって生涯を終えるのが自然な人生です。しかしながら、生きることに苦しんでいる人がいます。死を受け入れられないで苦しんでいる人がいます。
 この世に生まれた本当の幸せというものに遇えなくて、どこに救いの価値がありましょう。救いを求めるままで終わる人生は悲しいです。私たちには、現在においてこそ救いが必要なのです。

 お釈迦さまは、苦しみ、悩み、悲しみの原因を明らかにされました。
 そして、
「衆生を、必ず仏にします」と誓われて阿弥陀さまとなられた法蔵菩薩のお心、真実の願い(本願)を知らされました(仏説無量寿経) 私たちがすでに、量り知れない光といのちの中に生かされていることを教えてくださいました。

 そのときから、「あなたを、必ず幸せにします」と仰せられる阿弥陀さまと、自分の力で苦悩を断ち切ろうとしても、結局迷いから離れることができないものが、「絶対に見捨てません(摂取不捨)」というお呼び声によって固い絆で結ばれました。


 お釈迦さまは、「縁起を見るものは、法を見る。法を見るものは、仏(真実)を見る」と仰せられました。私たちも、お釈迦さまが見られた自然の道理を、法を、真実を見るのです。真実を見るために、永久不変の「真理、法性、真如」と表現される真実世界から、私たちを真実なる世界へ導く「阿弥陀」と名づけられる如来の真実心を聞くのです。そして、その如来と情感の世界で触れ合うのです。 

 阿弥陀さまは、「南無阿弥陀仏」の六字に姿をかえて私の心の中に入ってこられました。そして、私に称えられる「南無阿弥陀仏」の声という姿をもって呼びかけられます。
 「南無阿弥陀仏(名号)」は、自らのいのちをかけて「あなたの幸せと私の幸せは一つです」と呼びかけられる阿弥陀さまの働きそのものです(衆生救済活動)

            
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【七】阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは


 阿弥陀さまは、私たちにはとてもり知れない光無量光といのち無量寿の仏さまです。

 すべてのいのちを包み込んで救い取られる阿弥陀さまのことを、古代インドの言葉である梵語
(サンスクリット語)では、「アミターバ、Amitābha(限りない光)」、「アミターユス、Amitāyus(限りないいのち)」と申します。後に、その言葉が中国に伝わり、翻訳者によって「アミタ、Amitā(無量=量ることができない、限りがない)」が「阿弥陀」と、梵語の発音がそのまま漢字に写されました(音写、音訳)

 永遠に変わらない、過去も、今も、未来も不変である無上の仏さまは真実・真理そのもので、私たちに認識できるような色や形がおありではありません。
 このように申しますと、私たちの幸せのために尽くしてくださる阿弥陀さまは、具象化し人格化された仏さまのように思われますが、そうではありません。実は、この仏さまの本質
(働き、衆生救済活動)こそが私たちに認識できる真実・真理そのものであられるのです。

 また、阿弥陀さまのことを、「不可思議光如来」、「無量寿如来」、「尽十方無碍光如来」とも申しあげます。光(智慧)いのち慈悲の如来さまです。
 「如来」とは、梵語で「タターガタ、Tathāgata」と申し、「真如(あるがままの真実、真理そのもの)から、このようにいのちを救うためにやって来た」という意味で「働き」をあらわす言葉です。「永久不変の真理、法性、真
〈如〉」の世界から、形のないものを受け入れることができない私たちのところへ、真実を知らせるために「現れ〈来〉られた」仏さまのことです。

 阿弥陀さまの「働き」とは、何でしょうか。一例をあげてみます。

 お釈迦さまは「人生は苦しみです」と仰せられました。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦を加えて四苦八苦と申します。
 阿弥陀さまは、その一つひとつの苦悩に慈しみとあわれみの心をもって接してくださいます。
 いのちの救済は、阿弥陀さまのお心から始まります。
 四苦八苦の一つである「愛別離苦」を見てみましょう。出会ったものは、いつか別れなければならないときがきます。生別、死別、どちらにしても愛するものとの別れから逃れることはできません。このつらい別れに悲しむもの、苦しむものに、阿弥陀さまはあたたかな救いの手を差し伸べられます。


 阿弥陀さまは、「すべてのいのちを必ず浄土に救い取ります」とのお誓いを成就されました。
 その結果、この世では必ず別れがやってくるいのちといのちが、時は違えども、共に
阿弥陀さまに抱き取られてお浄土に往くのです
阿弥陀さまに願われて、安らかで浄らかなお浄土に参るのです。
 
お浄土は、光といのちの世界です。救い取られたいのちといのちが再び出会う世界です。(俱会一処)季節がめぐっても忘れられない
愛する人、つらい別れをしたなつかしい人、会いたくても二度と会えない大切な人・・・・・。別れという事実には悲しみだけが残るはずなのに、悲しみを超えて、もう苦しまなくてもよい、苦悩という言葉さえないあたたかな世界で再び会えるのです。
 一切の執着を離れた慈悲ばかりのお浄土で、救われたいのちといのちが真実の出会いをさせていただくのです。

 お浄土は、一切の煩悩やけがれを離れた、さとりの世界です。仏となって阿弥陀如来の「働き(衆生救済活動)」に参加して、私たちのいのちが生かされていく世界です。
私たちのいのちが帰する、光といのちの世界です(無量光明土)


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【八】南無阿弥陀仏とは

 さて、阿弥陀さま(阿弥陀如来、南無阿弥陀仏)について、もう少し詳しくお話いたします。
 阿弥陀さまは、「あなたを必ず救います」と、自らの名である「南無阿弥陀仏
(名号)」に、自身のいのちのすべてを込めて呼びかけてくださいます。
 私たちが救われるのは、この呼びかけ、一途な願い、衆生を救済される働きによるのです。

 私たちは、何の見返りも求められない、人知ではとても量り知れない阿弥陀さまのお心を知り、その真意をこの胸にいただくだけです(如来回向の信、真実信心
 阿弥陀さまが
法蔵菩薩であられたとき、「私の声が聞こえますか。私はあなたを救う仏になります。もし、あなたを救うことができなければ、私も仏にはなりません」と本願(設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法)を起こされ呼びかけられたのは、紛れもなく助けを要する私たちがいるからです。

 私たちは、ふと過去の行ないを思い出し、申し訳ない気持ちで胸が痛むことがあります。性格や行動を良きものに変えようとしても、変わることができない自分にますます落ち込むこともあります
 過去の間違った行ないによる良心の呵責、負い目が消えるわけではありませんが、何もかも承知で、「あなたはあなたのままでいい」とあたたかく包み込んでくださるお心を聞いて、自分
の性根が見えて、思いあがっていたわが身の愚かさに驚く
しかありません。

 愚かさの一例を挙げてみます。

 
私たちは、
おだやかな気持ちのときには愚痴や悪口を言わないで、感謝の思いと謙虚さも忘れず、思いやりのあるやさしい人間であるように努めることができるかもしれません。
 しかし、煩悩を刺激する縁に触れれば、たちまち欲が、怒りが、妬みが起こり、他を批判する心は激しくなり、相手を思いやる心は少なくなり、自らを省みることは忘れ・・・・・。
 もっと言えば、自分自身のことは自分なりに理解しているつもりでいても、実は、心の奥底はわかっていないのです。ですから、煩悩の炎が燃えあがると、どのような振る舞いをするのか自分にもわからないのです


 それなのに、このような私たちを包み込む大きないのちがあります。「南無阿弥陀仏」の一声をもって抱き取り、この赦されるはずのないものを赦さずにはいられない、救われざるものを救わずにはいられない「いのちの親さま」がいてくださいます。尽きることのない煩悩を抱えもって生きている私たちに対して罰を与えられるのではなく、逆に、慈しみをもって救い取ってくださるのが阿弥陀さまです。
 
阿弥陀さまは、悪いことはしないように望まれます(唯除五逆 誹謗正法)。罪を犯させたくないのです。しかし、それでもやむなく過ちを犯し悪業を造ってしまうものがいればどうしても見過ごしにできず、救済に動かれるのです(「唯除五逆 誹謗正法」のお心の真意)

 「救いとは何ですか」、「何が救われるのですか」などとあやふやに過ごしているものを、「とにかく助けます」と理屈抜きに抱き上げられるお慈悲に対して、私たちにできることは阿弥陀さまが自らの名をもって呼びかけられるお呼び声、「南無阿弥陀仏」をそのまま受け取ることだけです。
 注がれている深い慈しみの心に触れて、すでに救いの中に生きていることに気づくことこそが、救いです
(現生正定聚)
「このいのち、このまますべて阿弥陀さまにおまかせいたします」という世界に立つのです。

 私たちは、大いなるいのちへ帰っていくまで、安らかで浄らかなお浄土に往く日まで、毎日新たないのちを、二度とない今日一日を大切に過ごしましょう。
 わが身をかえりみつつ、失敗を繰り返しながらも、「今日こそ、きちんと生きてみよう」という気持ちを忘れないで、因縁のままにこの世のつとめを果たそうではありませんか。
 条件を付けないでお救いくださる阿弥陀さまですが、少しでも阿弥陀さまに喜んでいただけるように正しい道を歩みたいものです。


 自分にとって良いことは受け入れるが、その反対は受け入れられないというのでは、常に不安と苦悩の絶えない生活となります。紙の表と裏を切り離せないように、生死、苦楽、幸不幸などの問題も切り離すことはできません。
 しかし、私たちは、どのような状態であっても慈しみの光に照らされています。若
かろうと老いようと、健康だろうと病弱だろうと、親しい人がいようと孤独だろうと、好かれようと嫌われようと・・・・・、思い通りにいかない人生ですが、ただ一つ、このいのちをどこまでも見捨てずにいてくださる世界に生きられることほど力強いものはありません。
 一人で生まれ、一人で人生を終えなければならない私たち(独生、独死、独去、独来)が、阿弥陀さまの衆生救済の働き(如来の本願力)にすべてをおまかせして生きることは、弱いようで、実は何よりも強い生き方なのです。


 阿弥陀さまのことを思うときも、忘れているときも、常に阿弥陀さまの懐に抱かれているいのちです。
 何もかもをわかっておられる阿弥陀さま(いのちの親)と、阿弥陀さまにこのいのちのすべてをおまかせした私たち(仏の子)との絆ほど、自然で、安らかなものはありません。

 お念仏は、無理に称えるものでも、力んで申すものでもありません。また、自分の常識や知識が、称名の邪魔をする場合もあります。
 しかし、私たちは「阿弥陀さまの願い」を知らされた身ですから、素直に「南無阿弥陀仏」を称えさせていただきましょう。人前で都合が悪ければ、一人静かに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 ひと声の「南無阿弥陀仏」があってこそ、次の「南無阿弥陀仏」に遇えるのです。ひと声「南無阿弥陀仏」と申せば、ひと声「南無阿弥陀仏」とお呼び声が聞けるのです。そして、次々に「南無阿弥陀仏」に包まれてゆくのです(称名、聞名)
 うれしいとき、悲しいとき、さみしいとき、自己嫌悪に陥ったとき、阿弥陀さまを思うとき・・・・・、そして申しわけないことですが、お念仏がありがたくも何ともないときでさえも、そのときの心のままに「南無阿弥陀仏」と申させていただきましょう。
 いずれにしても、尊い「名号」です。

 そして、お念仏を忘れている自分に気づいたら、そのときからまた「南無阿弥陀仏」と申させていただけばよいのです。
 お念仏を称えるのに、一々理屈や理由はいらないのです。
 私たちがお念仏を称えようと称えまいと、阿弥陀さまを思おうと思うまいと、阿弥陀さまはずっと私たちを思い呼びかけていてくださいます大悲無倦常照我)

 
「法蔵菩薩」は、私たちを助けたい一心で、五劫もの思惟による発願と兆載永劫という途方もないご苦労をされました。そして、十劫のいにしえに「南無阿弥陀仏」の「名号」を成就されて「阿弥陀如来」となられました
 この「法蔵菩薩」の願いとご苦労が、衆生済度として花開き実を結ぶときが、私たちの称えさせていただく「ナンマンダブ(南無阿弥陀仏)」です。「阿弥陀」と名づけられた「如来」の真実が、今、わが身の上に成就されているのです(仏願の生起本末)


 
また、「称名念仏」は、阿弥陀さまの「お呼び声」であり、私たちの「ご返事」であり、「ご恩報謝のつとめ」でもあります。
 なぜならば、
私たちの称えるお念仏の響きは、どこかで誰かに、
「あなたを必ず救い、幸せにします」という真実のお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞いていただくご縁となるのですから・・・・・。

 

            
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【九】真実に触れる

 「真実」と簡単に申しましても、理解するのはたいへん難しいことです。
その、認識することが難しい真実と、すべてのいのちを救い取られる「阿弥陀如来」は、違う事象のように見えますが同じ真実です。

 そもそも永遠不変の真実には、私たちに認識できる具体的な色や形がありません。固定的な実体としての色や形があるものは、すべて移り変わり壊れてゆきますから真実ではありません。
 私たちは無意識のうちに、物事を自分の思い通りにしたいという偏った自己中心の目で見ますから、ますますありのままの真実が見えなくなります。そのために、いつまでも迷い続け苦悩から解放されません。

 そこで、私たちに苦悩の原因となっている心のありようを明らかにされ、真実がわかるようにしてくださったお釈迦さまの教えを聞くのです(仏法。お釈迦さまのさとられた真理、気づかれた真実)
 
お釈迦さまの教えを聞くと、何もかもが因縁によって生じ起こっている(縁起)という、一切の執着を離れた自然(じねん)の道理に気づかされます。

 すべてが、「あるがまま、ありのまま」の永遠の流れの中を縁起するいのちとして息づいています。

 お釈迦さまは、色や形をたよりに生きている私たちに、「阿弥陀」と名づけられた「如来」のお心を説かれました。
 「如来」は、真
〈如〉(あるがままの真実、真理そのもの)から、私たちを真実へと導くために現れ〈来〉られた仏さまです。

 私たちは、「如来」と心情の世界で触れ合うことで、「有るか」「無いか」というとらわれを離れた、「自然(じねん)の道理、「縁起」するいのちの真実に気づかされるのです。

            
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【十】人生という旅

 私たちはこの世に生まれました。人生という旅が始まりました。

 この世に生を授かったいのちが、自らの幸せを求めて歩みを進めるのは言うまでもないことです。しかし、人生という旅は豊かで楽しいこともありますが、その一方、自分の思い通りにならない無常の旅でもあります。
 この世に生まれて生きる私たちには、避けて通れない苦しみが伴います
生苦。誰でも歳を重ねていくと、否応なしに老いるという現実に苦しみます(老苦)。健康なはずの自分がまさかの病気になり(病苦)、そして必ず死がやってきます。死の要因は無数にありますから、どのような形でそのときがくるのか誰にもわかりません(死苦)
 更に、愛する人との悲しくつらい別れもきますし
愛別離苦、逆に怨みや憎しみを抱く人に会わなければならないこともあります怨憎会苦。求めるものがあっても思い通りに得られるわけではなく、手に入れても次々に沸き起こる欲心のために満足を知らず求不得苦、心と身体にも振りまわされます五蘊盛苦
 本当に色々なことがあるわけで、どこへいっても苦しみ
四苦八苦がついてくる旅です。

 その旅の途中、お釈迦さまの説かれた教えを聞く縁に触れたことにより、闇を闇とも知らない私たちの行く手を照らしてくださる阿弥陀さまに出遇いました。阿弥陀さまの思い(光)に照らされて、心の中の闇に気づきました。愚かなものがいるから阿弥陀さまがいてくださることを知りました。
 例えば、善い行いを求め、悪い行いは避けようとしていたのに、自分の都合によっては人としてのあり方や生き方に外れた行為をしたことに気づきました。狡さや弱さが、そして、一人よがりの自分が見えました。

 お釈迦さまのおかげで阿弥陀さまの救いに出遇い、生きる術に不器用なまま、色々な問題をかかえたまま生きていける道を知りました。
 その日から、むなしく時を過ごすこと
空過が多かった私たちの長い迷いの旅も無駄ごとではなくなりました。むなしい迷いの時間があったからこそ、ありのままの私たちを受け入れてくださる阿弥陀さまに出遇えたのです。

 縁によって生かされている私たちです。私たちの認識ではとても確かめられないたくさんの因縁によって、今の私たちがいます。
 呼吸するごとに未来を吸い、過去を吐き出して存在しています。今は、二度とありません。今が二度とないということは、やはりたいへんなことです。無常という事実をしっかり見つめるとき、生きていることの事実の重みがわかります。

 今、最初で最後の一日一分一秒、今日が過ぎていこうとしています。風のようにやって来て、風のように去っていく一日です。このかけがえのない人生の旅は、人生がむなしく終わることのない、お浄土へと続く旅です。

 それは、いつ、安らかで浄らかないのちのふる里(浄土)へ帰りつくかは大いなるいのちの流れにまかせて、今日という日を尊ぶ旅です。

            
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【十一】人生を振り返って後悔することはありませんか

 ところで、人生を振り返って後悔することはありませんか。罪の意識に苦しむことはありませんか。たまらなくさみしいことはありませんか・・・・・。

 誰でも、少なからず後悔という重荷を背負っています。取り返しのつかないことほど、忘れてしまいたいことほど、いつまでも心の中で生き続けます。
 反省は懺悔の心です。罪の重さに心が痛むことは、「申しわけありません」という気づきが芽生えている証拠です。
 阿弥陀さまは、私たちの心の底を静かに照らされます。その深い思いに照らされて、自分の愚かさに気づくときに芽生えるのが懺悔の心です。
 この気づきは、私たちがこの世で行なった善いこと善からぬこと
のすべてを知り尽くされたうえで、「どのようなあなたであろうと、決して見捨てはしません摂取不捨」という、阿弥陀さまのお心に触れる縁となります。

 自己嫌悪に陥ったり、心がくじけたり、悲しいほどの後悔を繰り返しながらも「申しわけありません」という気持ちが少しでもあれば、「元気をだそう。何か今からでもできることはないだろうか」、「今日一日だけでも、背筋を伸ばして前を向いて生きてみよう」と、新たな一日を、新たないのちを歩むことができるようになれるかもしれません。
 なぜならば、ありのままの私たちをまるごと受け入れてくださる仏さまがいてくださるからです。「これではいけない」と思いながらも失敗を繰り返す私たちを見捨てられない阿弥陀さまのお気持が、私たちの生きる力となってくださいます。

 誰も過ぎ去った過去を変えることも、未来に触れることもできません。しかし、今日の自分の生き方は見つめることができます。
 多くの人が生きていることをあたりまえのように思っていますが、あらゆるものは縁により時々刻々と生滅変化していますから、誰でも予期せぬ病気や事故などによって、今日が人生最後の日となるかもしれないのです。

 だからこそ、本当にしたいこと、しておかなければならないこと、何が大切で、何が不必要なのか、しっかりと見つめて整理しなければいけません。もし、残された時間があとわずかだとしたら何を思うでしょう。何をするでしょう。かけがえのないもの、本当に大切なものは何でしょうか。
 そして、今日一日のいのちの尊さに気づくとき、生死を越えた道も見えてきます。

 また、人生にはつらく苦しいことも多々あります。暮らすことにつまずき、生きることに戸惑うこともあるでしょう。理不尽な仕打ちに傷つけられることも、何を信じてよいのかわからなくなることもあるでしょう。
 誰もがみな心に何らかの傷をかかえて生きています。
 お釈迦さまは、「人生は苦しみです」と仰せられました。この世は思い通りにならない、苦しみの尽きない、耐え忍ばなくてはならない世界です
娑婆忍土。しかし、苦しみや悲しみという縁を通して、本当の幸せとは何かということを問う心が起こったら、真実に耳を傾けることができたら・・・・・。誰にも言えなかった自分の心の中を阿弥陀さまにさらけ出せたら、阿弥陀さまのお心を知り、「ああそうだったのか」と合掌している自分がいたら・・・・・、それは尊いことです転迷開悟

 阿弥陀さまが本願を起こされたのは、どうしても支え、救わずにはいられない私たちがここにいるからです。
 阿弥陀さまは、すべてのいのちを救い取るために、今も働かれています。すべてのいのちが救い取られるということは、私たちも絶対に救われるということです。
 阿弥陀さまは、さみしくて悲しくて怖くてうつむくものをそっと抱きあたため、淡々と凛々と悠々と生きられるようにやすらぎと喜びを与えてくださるのです抜苦与楽

 これだけは忘れないでください。何が起こっても、どんなことがあっても、阿弥陀さまがご一緒です。すべてのいのちを決して見捨てられない阿弥陀さまの大慈悲の中に、すでに私たちはいるのです。


 私たちの眼に見えない真実、この「幸せになってほしい」と願い続けてくださっている阿弥陀さまのお心に気がつくかつかないか、この違いは大きいのです。

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【十二】お釈迦さまの最期、入涅槃

 お釈迦さまは、さとりを開かれた35才のとき、「真実を伝えなければならない」という思いから説法の旅に出られました。
 ついに、阿弥陀さまのお呼び声「南無阿弥陀仏」を聞き、真実に触れられたお釈迦さまが、すべてのいのちが苦しみから解き放たれることを願い歩みだされたのです。


 それから45年が過ぎました。お釈迦さまは、80才のご老体となられました。お釈迦さまの最期はどうだったのでしょう。

 お釈迦さまとのこの世の別れが近いという事実を知った弟子たちは、動揺しました。弟子の思いを受け止められたお釈迦さまは、「悲しんではいけません。生あるものが死を迎えるのはあたりまえのことです。今日までずっと話してきたとおり、何もかもが様々な関わりによって生じ、移り変わってゆくのです。出会ったものには必ず別れがきます」、
「これからは、真実の教え(法)をともしびとし、その光に照らされる自分を拠り所として歩みなさい(自灯明、法灯明)」と仰せられました。
 真実に導かれ自然の道理に身をまかせて生きられたお釈迦さまは、真実に目覚めた人
(仏)としての姿を最期まで示されました。


 私たちは縁によってこの世に生まれ、縁によってこの世の旅をし、また縁によって限りない光といのちの営みに帰っていくのです。けっしてなくなるのではなく、私をこの世に存在させた大いなるいのちへと帰っていくのです。私をこの世に誕生させた大もとのいのちに、このいのちをお返しするのです。
 阿弥陀さまの「あなたを助けます」というお誓いに包まれて、どのような形で最期を迎えようと、あれやこれやと思いわずらう必要のない、ただ「ありのままの真実の世界」に、「自然の浄土」に帰っていくのです。
 お釈迦さまのさとりが報われていく世界である、阿弥陀さまの安らかで浄らかなお浄土
真実報土に往生するのです。

 物事は因縁によって成り立ち、すべてがかかわりあっていて、一つとして単独で存在するものはありません。
 従って、すべての生きとし生けるものは、人種・民族・宗教・性別・職業等々によって分け隔てをされることなく、それぞれのいのちが輝きを得て、苦しみから解き放たれなければなりません。
 お釈迦さまの生涯は、その答え(さとり)を私たちに伝えてくださるものでした。

 お釈迦さまは、クシナガラの沙羅の樹(沙羅双樹)の間に静かに横たわり、草花がゆっくりと枯れて土に還っていくように、生きるも死ぬも自然のことと受け入れられ生涯を終えられました(入滅)。広くて深い無量の世界へ、光といのちの世界無量光明土へ入涅槃されました。
  涅槃は、一切の執着を離れた・・・・・、お釈迦さまが身をもってお示しくださった、私たちのいのちの帰する世界
(浄土)です。

            
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【十三】お釈迦さまの思い

 お釈迦さまの思いでこの世を見渡すと、私たちには無価値とも思えるものまでもが、いのちの光に輝いています。すべてが、ありのままの自然の光に照らされ輝いています。

 見えるもの、見えないもの、触れるもの、聞こえるもの・・・・・、何もかもが光といのちに、「南無阿弥陀仏」に呼びかけられています。それは、美しくおごそかな自然の空間です。

 思えば、お釈迦さまの説法の旅は、真実のありようを阿弥陀さまのお姿をもって教えてくださる旅でした。「あなたを必ず助けます」と仰せられる阿弥陀さまの真実が、お釈迦さまを通して私たちに届けられたのです。

            
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【十四】「歎異抄」第一条、第三条、第九条

 最後に、〔1〕親鸞聖人
釋親鸞、浄土真宗の宗祖)がお書きになった「教行信証顕浄土真実教行証文類の中にある正信念仏偈の一節、〔2〕「末灯鈔」に収録されている自然法爾章の一節、〔3〕親鸞聖人の直弟子である唯円さまが書き残された「歎異抄」第一条、〔4〕「歎異抄」第三条、〔5〕「歎異抄」第九条、〔6〕蓮如上人のお手紙である「御文章」の中から聖人一流章を、現代語に訳してお伝えしておきます。

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〔1〕
 お釈迦さまがこの世に生まれ出られた目的は、ただ阿弥陀さまの「すべてのいのちを救う」という本願を私たちに伝えてくださるためでありました。
 『如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信念仏偈)



〔2〕
 
私たちは煩悩に眼(まなこ)をおおわれて、お救いくださる阿弥陀さまの光明を見ることができませんが、大悲の阿弥陀さまは少しもあきることなく、見捨てることなく、常に私たちを照らし護ってくださっているのです。
 『煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり』 (高僧和讃)



〔3〕 〈歎異抄 第一条〉

 「阿弥陀さま(阿弥陀如来)が仏さまになられる前の法蔵という名の菩薩であられたとき、『すべてのいのちを見捨てることなく、必ず浄土に救い取ります』という願いをたてられました。
 そして、『私の名(南無阿弥陀仏)を称えた(聞いた)あなたが、もしも安らかで浄らかな世界(浄土)に往生できなければ私も仏にはなりません』という誓いを成就されて阿弥陀如来となられました。
 このようにして仏さまとなられた阿弥陀さまは、自らの名である『南無阿弥陀仏
(名号)』に、自身のいのちのすべてを込めて、『あなたを必ず救います』と呼びかけられました。

 その阿弥陀さまのお心に触れ、『阿弥陀さまの名
(南無阿弥陀仏)を称えて(聞いて)みたい』という思いが起こったとき、この人生を阿弥陀さまに見守られながら生きて、生ききったときにお浄土に往生させていただく自分であることを知りました。
 『そのままのあなたを助けます』と呼びかけられる阿弥陀さまと、『ありがとうございます』と安心する私たちが、『南無阿弥陀仏』の名号によって固い絆で結ばれたのです。

 阿弥陀さまの『あなたをどうしても助けます』という願いは、老人も若者も善人も悪人も分け隔てされません。ただ、差し向けられた阿弥陀さまの願いをそのまま受け取る心がもっとも大切であると心得なければいけません。
 なぜならば、阿弥陀さまの願いは、もともと煩悩のために罪重く悩み多いものを救うためにおこされたお慈悲の誓いだからです。

 したがって、『救われるためにはもっと善い行いをしなければいけないのではないか』などと心配する必要はありません。
 阿弥陀さまは、私たちの何もかもをご承知のうえで、『南無阿弥陀仏
(ナンマンダブ)を称える(聞く)ものを無条件で救いとられるのですから、『南無阿弥陀仏』のお念仏よりも優れた善はどこにもないのです。

 また、『煩悩を抱えもって過ちを犯し、悪業を造り、正しい道を歩めない自分はとても救われないのではないか』と心配するかもしれませんが、大丈夫です。
 どんな悪い行いでも、阿弥陀さまのお心、真実の願い(本願)の前に立ちふさがるほどの悪は決してないからです」
 と、親鸞聖人は仰せられました。



〔4〕 〈歎異抄 第三条〉
 「善人でさえも、お浄土に往生することができるのです。そうであれば、なおのこと悪人の往生は間違いがありません。ところが世の中の人々は、『悪人でさえ往生をさせていただけるのだから、まして善人はいうまでもないことです』と言っています。

 この言い分は一応もっともなようですが、『煩悩のために苦しむものを助けたい』という阿弥陀さまのお気持ちにはいています。

 そのわけは、善い行いをして自分の力でお浄土へ往生をしようとする人は、自分を正当化し、自分の力を信じるがゆえに、『そのままのあなたをどうしても助けたい』という阿弥陀さまのお気持ちにまだ気づいていないからです。
 しかし、『あなたを必ず助けます。私に帰しなさい』と、すべてのいのちに分け隔てなく呼びかけられる阿弥陀さまのお心に気づけば、どんなに罪の重さに心が痛んでいても、誰でも阿弥陀さまによって必ずお浄土に救い取られるのです。

 あらゆる煩悩を身にそなえている私たちは、どのように自分の力で善い行いを積んでみても、結局迷いから離れることはできません。
 阿弥陀さまはそのことを心底あわれにお思いになって、『どうしても力のないものを助けよう』と本願を起こしてくださったのです。

 その本願のご本意は、自分で善い行いが積めると思っている善人よりも、自らの内側にある心の闇を見つめて、『私は、いくら善い行いを積んでも、結局のところ救われ難き罪も煩悩もあり余るほど具わっている悪人です』と打ちひしがれているものに対して、ことに、『安心しなさい。私が、あなたを必ず助けます』というお気持ちですから、その阿弥陀さまのお心にすべてをまかせきった悪人こそ最初にお浄土に往生をすべき人です。

 そこで、善人でさえも往生をさせていただくのだから、まして悪人はなおさらのことです」
  と、親鸞聖人は仰せられました。



〔5〕 〈歎異抄 第九条〉
 私(親鸞聖人の弟子である唯円)が、
 「私は口にお念仏(南無阿弥陀仏)を申しておりますものの、心に踊りあがるような喜びが湧き起こってきません。
 また、少しでもはやくお浄土へ行きたいと思う心も起こりません。
 こんな浅ましいことで大丈夫でしょうか。これはいったいどう思ったらよいのでしょうか」
とお尋ねしたときに、
 「親鸞もそれと同じ悩みをもっていたのですが、唯円房、あなたも同じ思いでしたか。

 よくよく考えてみますと、お浄土に往生するということは天に踊り地に踊るほど喜ぶべきことなのに、それが私たちには喜べないのです。
 しかし、それでこそいよいよお浄土に往生させていただくことに間違いがないと存じ上げるのです。喜ばねばならないはずの心をおさえて喜ばせないのは、煩悩のしわざです。
 阿弥陀さまは、かねてよりそのことを見抜かれていて、私たちを煩悩具足の凡夫と仰せになられているのですから、阿弥陀さまの本願はこのように浅ましい私たちのためのものだったと気づかされて、ますます頼もしく思われます。

 また、急いでお浄土に行きたいとあこがれる心も起こらないで、少し病気でもすると死ぬのではないかと心細く思うのも煩悩のしわざです。
 久遠の昔より迷い続けてきたこの世という苦悩のふる里には、捨てがたい愛着があるのに対して、まだ生まれたことがない安らかで浄らかなお浄土には、少しも恋しい思いが起こらないのです。
 それはすべて煩悩のしわざです。
 しかし、この世にどれほど執着して名残しんでいても、この世の縁がつきて力なく生涯を終えるときには、必ずお浄土へ往生させていただくのです。阿弥陀さまは、急いでお浄土へ行きたいという心の起こらないものを、特にあわれに思ってくださるのです。
 それだからこそ、大慈大悲の本願は、私のようなもののために起こしてくださったのであると、ますます頼りになって安心であり、お浄土で仏にしていただくことは間違いがないのです。

 もし、心に踊りあがるような喜びが湧き起こり、また少しでもはやくお浄土へ行きたいと思うようでしたら、私には煩悩がないのだろうかと、かえって疑念を抱くことでしょう」
 と、親鸞聖人は仰せられました。



〔6〕 〈聖人一流章(御文章)〉
 
親鸞聖人のお勧めくださる浄土真宗の趣旨は、多くの煩悩をかかえて生きている私たちの何もかもをご存じのうえで、「あなたを必ず助けます」と誓われて仏となられた「阿弥陀さまのお心(阿弥陀如来の真実信心)」がすべてです。
 「あなたをどうしても救わなければならないのです」という、何の条件も付けず、何の見返りも求められない慈悲ばかりの阿弥陀さまの願いを知らされたとき、私たちはそのお心
(衆生済度のお働き)をそのままいただくのです(信心)
 私たちのいただくところの信心が、信じようと努める私たちの心ではなく、「安心しなさい。あなたを必ず助けます」という一途な阿弥陀さまのお心がすべてであるということは、なんと尊いことでしょう。


 そのわけは、生死の問題を解決するために、私たちのもろもろの行為をたよりとしないで、「あなたを必ず助けます」と呼びかけられる阿弥陀さまの声、「南無阿弥陀仏」にこのいのちを委ねますと、私たちにはとてもはかり知れないお慈悲のお力によって、このいのちが真実のさとりの世界である安らかで浄らかなお浄土に救い取られるからです。

 このように、救いの中に生きる喜び、お浄土に生まれることが定まった境地について曇鸞大師は、「私たちは、阿弥陀さまのすべてのいのちを救いたいという願いに気づいて、そのお心をいただいたとき、阿弥陀さまのお浄土で必ず仏にしていただくことを喜ぶいのちの仲間に入るのです」と註釈をしてくださいました。

 そして、そのうえでの称名念仏は、救いの中に生きる私たちの阿弥陀さまへの感謝の気持ち、ご恩報尽のお念仏です。
 お念仏は、称えているのは私たちですが、実は阿弥陀さまのお声です。残念ながら、私たちには阿弥陀さまの光明を見ることができません。それで、阿弥陀さまは自らの名(名号)に自身のいのちのすべてを込めて、「南無阿弥陀仏」の六字に姿をかえて私たちの心に入ってこられました。
 そして、
私たちに称えられる「南無阿弥陀仏」という声の姿形(名声)となられて、私たちの口から呼びかけられているのです。その声を、私たちは聞くのです。私たちの口と耳を通して、阿弥陀さまと私たちは「呼びつ呼ばれつ」の日暮です。そのように心得させていただきましょう。

 
ナマンダブ、ナマンダブ・・・・・、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・。謹んで申し上げます。 (蓮如上人、御文章五帖目第十通)



   
南無阿弥陀仏
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《 私たちへの伝言 》


◇ 「釈尊〈お釈迦さま〉なくして弥陀〈阿弥陀さま〉の願心に出会うことはできず、また釈尊によって発見せられし『無常』の真理なくしては釈尊の説法もなかったのであるから、弥陀なくしては釈尊もあり得ないのである」(毎田周一氏

◇ 「仏さまの言葉は、『まぁゆっくりしておいで、そのままでいいんだよ』と聞こえてくる。するとその人は、元気が出てきて、『よーし』と、さらに歩みをはじめるのでしょうね」(圓日成道師)

◇ 「与えられたいのちの不思議にめざめ 人間のおごりをすて すべてのいのちを大切にしよう。 えがたくかぎられた かけがえのない人生 ともに尊ぶ世界をひらこう」(二葉憲香師)

◇ 「岩もあり 木の根もあれど さらさらと たださらさらと 水の流るる」(甲斐和里子さん)

◇ 「死にむかって 進んでいるのではない 今をもらって生きているのだ 今ゼロであって当然の私が 今生きている ひき算から足し算の変換 誰が教えてくれたのでしょう 新しい生命 嬉しくて 踊っています ゛いのち 日々あらたなり゛ うーん わかります」(鈴木章子さん)

◇ 「私たちは それぞれの一生という水滴の旅を終えて、やがては海に還る。 母なる海に抱かれてすべての他の水滴と溶けあい、やがて 光と熱に包まれて蒸発し、空へのぼってゆく。そしてふたたび地上へ。子供の絵のような幼い比喩だが、私には それがたしかに目に見えるような気がするのである」(五木寛之氏)

◇ 「お母さんは ゛無量寿゛の世界より生まれ、゛無量寿゛の世界へと帰ってゆくものであります。何故なら゛無量寿゛の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の゛いのちの故郷゛ そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられた゛平野恵子゛という生を尽し終えた時、お母さんは嬉々として ゛いのちの故郷〈阿弥陀さまのお浄土〉゛へ帰ってゆくのだろうと」
  「゛無量寿゛=゛いのち゛とは、すなわち限りない願いの世界なのです。そしてすべての生きものは、その深い ゛いのちのねがい゛に支えられてのみ生きてゆけるのです」(平野恵子さん)

 誠に知んぬ。悲しきかな、愚禿鸞〈親鸞〉、愛欲の広海に沈没し、名利〈名誉や利益〉の太山に迷惑して、定聚の数〈浄土に生まれて仏になる仲間の数〉に入ることを喜ばず、真証の証〈仏のさとり〉に近づくことを快しまざる〈うれしいとも思わない〉ことを、恥づべし傷むべし」(親鸞聖人)

 「いだかれて ありとも知らず おろかにも われ反抗す 大いなるみ手に」(九条武子夫人)

◇ 「凡夫というは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとえにあらわれたり」(親鸞聖人)

◇ 「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」 (親鸞聖人)

◇ 「世間は虚仮なり、唯仏のみ是れ真なり」(聖徳太子)

◇ 「その自分の耳にも法を聴聞する手がかりがあります。その眼にも仏を見る手がかりがあります。その口にも仏を讃歎する可能性をもっております。身・口・意の三業、すべて煩悩で固められた罪業深重の器がそのまま仏の道に役立つ可能性をもっております。もちろんそれは仏のみ教えによって、仏の智慧に照らされて、自分の心が開かれるからであります」 (暁烏敏師)

◇ 「人さまのお手本《優等生》にはなれないけれども、こんな人間でも救われるよという見本にならなれます」(高光大船師

◇ 「阿弥陀如来は衆生の仏性(仏となる可能性)を見つけて信じた。阿弥陀如来は衆生の本心を見抜き、衆生を信じて本願を起した。信は仏にある。 ただ一方的に仏を信ぜよというのでない。我々が仏を信じていようがいまいが、先ず仏は我等を無条件に信じ念じておられる。その証拠が南無阿弥陀仏である」
  「如来、如より来たる。 如は、まこと〈真実〉です。法のまことです。如は形をとります。光という姿をとり、私どもを照らしてくださります。そしてさらに光が本願をおこして、名号〈南無阿弥陀仏〉を成就して、私どもを呼んでくださります。言葉となって、光の姿としてあらわれ、そうして名号を示して、私どもを呼んでくださります。私どもには業というものがあり、如来には大悲の本願があります。結句、私どもを助けてくださることのほかに何もないのです。これみな法のはたらきです。それが、阿弥陀如来〈阿弥陀さま〉であります」(曽我量深師)

◇ 「恥かしや 親〈阿弥陀さま〉に抱かれて 親さがし くたびれはてて 親のふところ」(那須行英師)

◇ 「中心の親鸞さまから、念仏に帰依し、念仏する親鸞さまへと転生してゆき、そこからさらなる転生を恵まれて、親鸞さまはまさに、念仏せしめられる親鸞さまとなられているのです。この転生は、そのまま仏さまの願いの展開にほかなりません」(高史明氏)

 煩悩を野放しにしたままですと際限なくあらたな業を積んで、その結果を受けて際限なしに苦しむという悪循環を続けることになりますが、一度『南無阿弥陀仏』というお名号が私どもの生活の中に入ってきますと、愚痴を言うところを『南無阿弥陀仏』のことばがとってかわり、人の悪口を言うところを『南無阿弥陀仏』がとってかわります。そうしますと、いつのまにか悪業を生みだす因が取りのぞかれていくことになります。うれしくても悲しくても『南無阿弥陀仏』と受けていく生活は、人の悪口を言うかわりに『南無阿弥陀仏』、人を呪うかわりに『南無阿弥陀仏』、そうなりますとつぎからつぎへと自分自身の業が転ぜられて功徳に変じてきます」(坂東性純師

 「『弥陀の名号称するに、行住坐臥もえらばれず』とは、ご信心をいただいた上は道を歩むときは歩みながら、止まっておるときは止まりながら、さらに座っていても臥〈ね〉ていても、お念仏は休まずにということである。『時処所縁もさはりなし』の時とは、昼夜朝暮、いつでも。処とは、山へ行っても市場に買いものに行っても、どこででもお称名はたえまなしに称えよとの仰せである。所縁とは法を喜ぶ縁ということ、お説教にお参りして喜ぶも縁、友達の死を聞いて悲しむも縁、花や月をながめてお浄土の荘厳を思い浮かべて喜ぶのも皆これご縁である」(七里恒順師

 「やり直しのきかぬ人生であるが、見直すことができる」
  「ただ念仏して」とは、なんの道理をもつけずに称念する〈「南無阿弥陀仏」を称える〉ことである。悲しみにつけ、喜びにつけ、心理の動くままに称念するのである。人生に悩み彼岸〈生死を超越したさとりの世界〉を願う、そのままの心が念仏するのである」(金子大栄師)

 「法然上人〈法然房源空、浄土宗の開祖〉は、『わが身に聞こゆるほどに』と申されていて、お念仏は声を出してそれが自分の耳に分かればよいと、花田〈花田正夫さん〉はいつも申しておりました。花田がいつも喜んでおります源通寺さまのお歌、『宿業でたとえぼけても狂うても たがえたまわぬ弥陀の約束』、有難いですね。私もこれしかありません」(花田あやさん)

◇ 「如来さま〈阿弥陀さま〉は、衆生をどうやって救うか五劫思惟なさって、その全部の功徳を衆生に回向して、仏名(南無阿弥陀仏)に成就して、その声になって救うと決められました。これを名声(みょうしょう)といいます。声になる名であります。如来さまは、衆生に称えられる『南無阿弥陀仏』という名の声の相〈すがた〉の仏さまとして、私を救いにおいでくださっているのであります。その仏さまが、私と一つになって、一緒にお浄土へ行ってくださるのであります。口に称うれば、たったの『南無阿弥陀仏』という六声でありますけども、これには、もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具しており、極速円満するおはたらきがあります。真如一実の功徳宝海であります。それが、私に満ち満ちておるんだよということであります」(深川倫雄師)

◇ 「智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし」(法然上人)

 さて、当日の境内は色とりどりのツツジが見ごろを迎えておりました。 法座が終わり外に出ますと、先程までお念仏が響き渡っていたはずの境内も静寂を取戻していました。そんな中、色とりどりのツツジのあま~い蜜を、次から次へと忙しそうに集めているクマバチ〈熊蜂〉のブ~ンという力強い羽音が、余韻残るお念仏の『ナマンダブ~』のブ~の余韻と相まって、味わい深く聞こえてまいりました。見えるもの見えないもの、何もかもが阿弥陀さまに照らされ輝いています。『ナマンダブ ナマンダブ ナマンダブ・・・・・』に包まれた、『南無阿弥陀仏』の中のいのちです」(大西敏夫氏)

 「親鸞聖人は、自分の喜ばれている姿をひたすら紙著作に残して下さっています。親鸞聖人のお心を聞かせてもらえば、決して誰かに教えを説くために書かれた物ではなく、ただただ自分が大きな阿弥陀さまのお心の中にあることに気がつき、そのことを喜んでいる姿を紙に残されているようにしか思えないのです。ですから私は、親鸞聖人も蓮如上人も同じ仲間であり、友人、同朋としか思えないのです。共に、全く同じ阿弥陀さまに抱かれた一つひとつのいのち、それ以外の何ものでもありません。親鸞聖人や蓮如上人がお念仏をよろこんでおられなければ、今、この時、私が阿弥陀さまのお心に出遇うことはなかったことでしょう」
  「自分にとって、自分の口から出たお念仏〈南無阿弥陀仏〉を、自分の耳で聞かせていただくということが、どれだけ幸せなことなのか・・・・・。そして、みなさんの称える『南無阿弥陀仏(阿弥陀さまの呼び声)』を、私も聞かせていただけるということが、自分にとってどれだけ嬉しいことなのか・・・・・」(橋爪昭人氏)

◇ 「うれしいではないか。私が私として生きていくことができるのは、いや死んでいくことができるのも、阿弥陀仏の支えあっての話である」(駒澤 勝氏)

「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば 弥陀弘誓のふねのみぞ のせて必ずわたしける」(親鸞聖人)

◇ 「阿弥陀さまが、私たちの声を借りて呼びかけようとされているのに、その邪魔をしては申し訳ないと思いませんか。 『南無阿弥陀仏』は、阿弥陀さまの一途なお呼び声です。 阿弥陀さまが、私たちに称えられる『南無阿弥陀仏』という声の姿形となられてまでして、私たちのもとへ救いに来てくださっているのですよ。昔、『皆さんの唇の動かないのが口惜しゅうございます』と貞信尼さまは言われたそうです。ひと声『南無阿弥陀仏』と申すと、『南無阿弥陀仏』と聞こえるではありませんか。呼ばれたりお呼びしたりの阿弥陀さまと私です」
  「阿弥陀さまは『南無阿弥陀仏』という声となり、手話となり、点字となり・・・・・、いろんな声の姿となって呼びかけてくださいます。うれしいとき、さみしいとき、悲しいとき・・・・・、私は阿弥陀さまとそっとお話をするのですよ。 ナンマンダブ、ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・・・と」 (藤原瑞枝さん)

◇ 「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな ねてもさめてもへだてなく 南無阿弥陀仏をとなふべし」(親鸞聖人)

 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし 摂取してすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」(親鸞聖人)

◇ 「清浄光明ならびなし 遇斯光のゆゑなれば 一切の業繋ものぞこりぬ 畢竟依を帰命せよ」(親鸞聖人)

◇ 「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり」(親鸞聖人)

 詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」(親鸞聖人)


               《 親鸞聖人の言葉 》
  「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあわれみて

      釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」(浄土和讃)

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 この
お釈迦さま物語(釈迦如来の教えと阿弥陀如来の救い)」は、2012年(平成24年)4月より「純心寺ホームページ」に記述しています。



    

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